【エッセイ】わからなさから触れてくる
自分の動機とか内面とか呼ばれるもの、感じているものを、まったく知らない言葉で書かれているところに出会ったときの、本能的な感情の動き。
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わからない。さっぱり理解できない。けれどもなにかが触ってくる。その言葉の理解できるところと、わからないところの綾を通して、その感じは、自分のことだという感じは、触れてくる。
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その言葉がわかるということと同じくらい、それがわからないということが、その言葉が自分のことであるためには、つまり、誰のものでもなく感じられるためには、必要なのかもしれない。
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なにかを感じるとは、それを感じる自分が立ち上がる出来事か、それとも自分が解体される出来事なのか。結局大事なのは、どうしてそう考えることを選んだのか、なのだろう。
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言葉を重ねていくことで、浮かび上がってくるニュアンスというものは、その言葉の意味とは一致しない。言葉たちの意味の隙間に染み渡った陰影は、つねに言葉の島々を、影の海に沈めようとしている。
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息を吸って燃え、息を吐いてなお輝き続けている、この視界という名のニュアンスの暴力。
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人はたいていそんなに新しいことは言えない
自分の言葉で語るとは、ごく当たり前のことに、わかりづらさを注入することということになる
もっともそのわかりづらさとは、その人自身が、そのわかりづらさをいちばんわからない、というようなわかりづらさだろう
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わかるということは、わからないということとそんなにくっきりと区別できるものではない。それは、わかるとわからないを混ぜ合わせてできている。
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なにかがわかったときの達成の感覚は、同時になんらかの無知を達成した感覚でもある。もちろん、それを自覚できるはずもない無知だ。だからこそ、いっそうそれは無知らしい無知でもある。
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どんな言葉であっても、慣れ親しんでいる言語なららそれなりの時間それにさらされてみれば、その言わんとしているところを感じとれるだろう
すくなくとも、その羅列からなにかしら自分が感じとっているか、なにも感じとれていないかは、なんとなくわかる
問題はそんな時間も忍耐も捻出すること自体難しいということ
ところで、この仮に想定された「感じ」は、その言葉の意味からやってきたというより、言葉の陰影のなかからやってきたものではないだろうか
読んでくれて、ありがとう。