【エッセイ】選択によって分岐する過去、を演じる
私が私であるとは死を忘れること、言ってみればこの自分の永続を演技をすることだ。
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たしかに死ぬことからは逃れられない
それは、なによりもまず、死が可能性の死であるからだ
死は、自分のそれまでをたったひとつにしてしまう
そこに至るまでの、数えきれない道があったはずなのだ
死を念頭に入れるとき、私たちの道はひとつになる
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ある選択によって分岐するのは、未来よりも過去なのかもしれない。もちろんフィクションとしての話だ。
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あるいは分岐を、分離を、現実の裂け目を、引き寄せるのが選択なのだ。
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選択は、過去を選ぶことと未来を選ぶことの混合した過程だ。そうだとしてどちらが先なのか? 互いに入り組みあっているのか?
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選択は、自分をどの作品のどのページのどの行のどの文字に位置付けるかを決めることだ
問題は自分に関して、それがどんな作品なのかはっきりとわからないこと
そして、その終わりを知ることも決してないということ
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どれだけ演技しても、演技しすぎるということはない
それは嘘と真実の境界を破壊するけれども、そうすることによって別の嘘と真実をつくりだす
演技はつねに演技以上であり演技以下だ
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選択とは、ある一瞬を演技することだ
けれどもその演技のもとになった一瞬とやらは永遠に見つからない
あたかも演技によって破壊されたかのようだ。それとも守られたのだろうか
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ある演技が磨耗していくとき、そこに生が見出される。
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ある選択も、そこに結びついた分岐も、しだいに朽ち果てていく
あのとき選んだ選択と、今ここにいる自分にとっての、そのときの選択は同じものだろうか
実は見かけだけ同じで違う選択の上に、今の自分は立っていないか
読んでくれて、ありがとう。
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