【エッセイ】私と身体の絆
たとえば肺や、胃といった、一生目にすることがない、したがって会うこともないなにかへ向かって、空気や、食べ物といったものを送りつづけることは、考えてみれば途方もないことだ
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肺だとか、胃といったものを介したさらにその先、最奥に控えている心臓や脳、それらとまみえることは一度としてない。にもかかわらず、それらは私たち自身を司っている。いや、「だからこそ」なのか。
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自分の胸のなかに、得体のしれないうごめきがあることに気づいた最初の人間はなにを思ったのだろう
それを知ることはできないが、古今東西のあらゆる人々が、心臓や胸について逸話を残さずにいれなかったことは、その原体験の痕跡をとどめている
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魂の居場所を胸だと考えた人たちの念頭にあったのは、この得体のしれない鼓動だろう
ひとりでに、自分の操作をはなれて、それは打ち続けている
自分のなかに打ち込まれたこの制御不可能なうごめきを、逆転的に自分自身の所在だと彼ら彼女らはみなした
そうすることによって、その得体のしれなさを鎮めたということだろうか
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どんな感情にしても、はじめて感じられたその感情、それが世界に登録されることになったその原器としての感情を私たちが知ることはない
私たちは、悲しみの原初も、喜びの原初も知らない
だからこそ悲しむこと、喜ぶことができる。その原初を知ることがあるとすれば、そのとき私たちは破壊されるだろう
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息をすることには、宛てのない手紙を書き続けるような途方もなさがある。言葉を口にすることについてもそうだ。心臓、魂、自分であって自分ではない、自分よりさらに奥にあって、ままならない闇に向かって、それを送り続けなければいけない……
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あまりに密接なのに、どうしても説明のつかないこと。近すぎる異物。そこから魂はやってきた。自分のなかであって、自分よりも奥深い場所、と言ってみること自体、「魂」と言ってみるのと同じ言葉遣いだ。
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「私」が、息をしつづけられていること。それだけが、その息が届いたことの証明だ。それ以外のものは与えられない。
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ときどき苦しくなるとき、その苦しさのなかでかろうじて、その息が届かなかったことを知る。なぜ届かなかったのか
その説明をつけようとして考えを巡らすけれど、それらの考えは、この届いたことの証明の不可能さ、宛てのなさのあとにやってくるものだろう
ある考えとこの宛てのなさのあいだにこそ、私たちの切実さがある
おそらく、心臓や魂についての逸話をつくりだしてきた人たちを襲った切実さと、それはどこかで通じている
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私の奥に潜んだものたちと私のあいだには絆がある
それは繋がっているというよりも、繋がりのないからこそ、絆としか呼べないのだ
たとえば心臓と私のあいだには無限の隔たりがある。それなのに私は届くあてもなく息をし、心臓はこの鼓動を死ぬまで私のそばでずっと打ち続ける
理由もなく、それなのにずっとそばにあるというただそれだけによって、私たちは、隔たりつつも繋がっている
この繋がりのない絆の全体を、いつか「魂」と名づけてみよう
読んでくれて、ありがとう。