【エッセイ】どこまでも余計なもの
私が生きているという以上に、私が世界に付け加えるべきことはなにもない。なにかが確実に余計なのだけれど、その余計ものがなんなのか知ることはないのだろう。
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巧妙に配置された岩の規則も、宇宙の彼方から見ればちっぽけな点にさえ満たない。
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距離を離すほど、物体が見えなくなるより先に、そこにある秩序が見えなくなっていく。
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太陽から遠ざかるほどに、世界の色は微妙に変わる。もっとも微妙で、だからこそ深いところで変化を見せるのは影の色だ。
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秋は、あらゆるものがすこしずつなにかを失っていく季節だ。その喪失されたものが互いに身を寄せ合った集積が、その季節なのかもしれない。
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どれだけ強く信じようとしても、そのなにかを信じ切ることはできない
疑うというわけではない
いつだってなにかを掴み損ねるのが信念なのだ
信じることは、けれどそうしてこぼれでたものも見逃さず、そうやって自分自身を際限なく広げていこうとする運動だ
それはついに、世界そのものになり変わるまでになる
それでもまだつかみ損ねているものとどう対するか?
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最後までつかみきれなかったものが、その人自身の意味となるだろう。なにができないのか、なにを果たせなかったのか、なにをやり損ねたのか。こういったことこそが、その人に固有の、その人自身の根拠だから。
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なにをなしとげたか、なにを信じたか、そういったことは、むしろその影だ。けれども、どんなふうになにをやり損ねているのか、その人が知ることはない。私たちは「できる」ことしかできないのだから。
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他人の「できない」を真似することはできない。現実にあらわれてさえいないのだから。だからこそ、それはその人だけのもので、誰とも共有できない。
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失われたものは、それを失ったものよりも、常に大きい。そして誰にも気づかれずに失われたものこそが、そのようななかで、もっとも巨大な喪失なのだろう。
読んでくれて、ありがとう。