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『はじめに言葉ありき』 の謎。
はじめに言葉ありき。
遠い記憶をたどれば、小学校のころ、古来から伝わる言霊の大切さを教えてくれていることわざなのだと習った気がする。
わたしが無学なだけだったのか、それともそう誤解している日本人の方がいまだに多いのかはわからない。わたしはずいぶんのちに、これが『聖書』からの引用であることを学んだ。
それから数十年後。たまたま手にした本の中に、こんな言葉を見つけた。
人間の行動は、まず心に「思う」ことから始まる。
稲盛和夫さんの『活きる力』。この頃はビジネス書や自己啓発の本を読みあさっていて、その中の一冊だったと思うのだけれど、このたった1行がなぜだかわたしの心を捉えた。さらに読み進めると、こう書いてある。
「思う」ということは、「考える」ということよりもはるかに大事
なんども何度も反芻してみる。仕事を始める前と、昼休憩と、夜寝る前と。でも、わかったようでわからない。しばらくたったころ、ふと仕事の手が止まった。
はじめに言葉ありき。
このことわざに、どこかしら似ている──。
いままで気にもならなかったことが、とつぜん気になって仕方ない。
わたしは急いでスマホを手に取り、原文を探した。
インターネットが便利なのは、原文が簡単に見つかること。
「はじめに言葉ありき」は『新約聖書』の言葉(ヨハネ伝 1:1)で、つまり原文はギリシア語。ただしローマ・カトリックでは、長年ラテン語訳がつかわれていた。この頃はまだギリシア語やラテン語を習う前で、わたしにはどちらもわからない。だから手がかりとして、英語訳も見たかった。
短い文章なら、どの単語がどんな意味なのか、比較がしやすいのではないか。
そう考え、3つを日本語と並べてみた。
日本語: はじめに言葉ありき(現代訳:初めに言があった)
英語: In the beginning was the Word
ラテン語: In principio erat Verbum
ギリシア語: Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος(En archē ēn ho logos)
日本語では<言葉>となっているところが、英語では Word、ラテン語では Verbum、ギリシア語では logos となっている。
<ロゴス>か──。
この瞬間、ひとつの疑念が湧いてきた。
<ロゴス>は<言葉>なのか?
調べてみると、ギリシア語の<ロゴス>には実にたくさんの意味があるようだ。
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※出典:古川晴風・編著『ギリシャ語辞典』(大学書林)
これだけ多岐にわたる意味の中で、一体どれが本当に正しいと言えるのだろう?
本当の意味が「たった1つしかない」などと、誰が言い切れるのだろう?
もしかすると、<言葉>よりも<思い>や<念>に近いものなのではないか。
よくはわからないけれど、自分にはそちらの方がしっくりくる気がした。
その後、佐藤優さんがご著書の中でこの話題に触れられているのを見つけた。ゲーテの『ファウスト』には、主人公が「はじめにロゴスありき」をどう翻訳しようかと考えを巡らせていく場面がある。その中で、「はじめに<◯◯>ありき」の中身がこんなふうに入れ替えられていくというのだ。
① 言葉(ヴォルト)
② 心(ジン)
③ 力(クラフト)
④ 行為(タート)
※参考:佐藤優『世界のエリートが学んでいる 哲学・宗教の授業』(PHP)
ちなみにこの場面、森鷗外の訳では、
① 語(ことば)
② 意(こころ)
③ 力(ちから)
④ 業(わざ)
となっている。
──面白い。もうこれだけで、<ロゴス>の解釈がずいぶんと枝分かれしている。どれもが正解のようにも思えるし、不正解のようにも思える。でも、それがいい。古今東西、きっといろんな人間が <ロゴスとはなんぞや?> について思考を巡らせてきたのだ。そう考えると、なんだかワクワクした。
それからしばらくして、気づいたことがある。
稲盛さんの言葉は、ジェームズ・アレン著『「原因」と「結果」の法則』の思想を紹介したもの。日本語のタイトルからはわかりにくいけれど、原題は『As A Man Thinketh』。thinketh は thinks の古い言い回しで、think は<思う>とも<考える>とも訳すことができる。
つまりそれは、「 原因=思い/考え」ということで、「はじめにロゴスありき」の言い換えなのだろう。原書を取り寄せてみると、源流には『聖書』があることがよくわかった。
それから調べていくうちに、これが数多のビジネス書の源流になっていることもわかった。そして笑った。わたしがたくさん読んできた本は、つまり結局のところ、一冊に行き着くのではないか。
『聖書』
──結局どれも異口同音で、つまりひとつの<イデア>に収斂するのではないか。
はじめにロゴスありき。
言葉なのか、思考なのか、言うなのか、思うなのか、考えるなのか。
不言実行なのか、有言実行なのか、求めよさらば与えられんなのか、叩けよさらば扉開かれんなのか、我思うゆえに我在りなのか。
結局、みんな同じことを言っている?
パラフレーズだ。
わたしがあんなにたくさん読みあさってきた本も、著名人のスピーチも、どれも解釈や手法の違いこそあれ、すべては<ひとつ>だったのだ。おバカなわたし。一体なにを学んできたのだろう。
Universe ── All things are one. (宇宙──すべてはひとつ)
そう思った瞬間、なんだかスッキリした。なぜ日本にこれだけ多くのビジネス書があるのかといえば、『聖書』や『古典』を読み込む習慣がないからなのではないか。そう思ったりもした。どれも断片的に同じことを伝えてくれているのだから。
すぐれた作品とは、いつまでも原形を崩さずに保つ表現のことではなくて、活潑に新しく興味あるコピーを生み出す力をもったものである。
外山滋比古『異本論』(ちくま文庫)
外山滋比古先生は『聖書』のことだけをおっしゃっているのではないけれど、聖書にもこの言葉はピッタリ当てはまるような気がする。
わたしは仏教徒だけれど、こういうことを考えたり、気づいたりするのは愉しい。<なぜ>がわかるのは、とても楽しいことだから。
八十歳近くなりましてから、ギリシャ語で聖書を読もうと思い立ちましてな、ギリシャ語の勉強もしております。
三浦綾子『夕あり朝あり』(新潮文庫)
なぜ、ギリシャ語なのか。それが気になって仕方なくて、わかった時の喜びとか。
<学習知>と<体験知>の違い。──子供の頃「こんなこと覚えてなんの意味があるんだよ!」と思っていたことに、意外な意味や価値があるとわかったときの驚きと、少しばかりの悔しさと、嬉しさと、そして感謝と。
大人になってからの楽しみは、あの時苦労したことにもちゃんと意味があったんだな、と思えることなのかもしれない。
蒔かれた種がいつ芽吹くのか、芽吹かないのか。
人間には、それを確実に知るすべも、見届ける方法もない。古代蓮のように数千年後に花開くこともあるのだから──いつか実を結ぶことを念じつつ、あちらこちらにまわり道をしながら、のんびり待ってみるのもいいのかもしれない。
ロゴスはココロで、アタマで、コトバで、チカラで、ワザなのだから──
一生勉強なのだ。
日々是精進、無知の知。感謝。明日もイイ日に。
◆最終更新
2021年12月9日(木) 12:25 AM
※記事は、ときどき推敲します。一期一会をお楽しみいただければ幸いです。