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チベット短歌記〜河口慧海の歌を読みはじめたい

明治30年。
漢訳により矛盾の生じた仏典に疑問を持ち、ならば原典を見るのだ、と当時鎖国体制にあった秘密国家チベットへ単身潜入を果たした僧侶、河口慧海。比類ない探検者でもあった慧海自身の記録「チベット旅行記」は旅行記としても冒険譚としても抜群に面白いのですが、実は彼の旅は歌を詠みながらの吟行でもありました。

現代の水準から見ても破格の冒険それ自体がもうぶっちぎりで、ゆえに若干置いていかれている感のある、慧海が折々で詠んだ歌。初読の時に正直読み飛ばしていたのをもったい無く思い、それらを鑑賞しながら再読しようと思い立ちました。で、せっかくなので歌の鑑賞録として記録しておこうとも思ったのです。
ことの発端はこちらです。

すこし調べてみましたが少なくともネット上には、慧海の歌にフォーカスしたまとまった記述は今のところ見当たりませんし、そのような過去の文献もどうやら見つかりません。慧海について書かれたテキストはそのほとんどが探検者、宗教者としての慧海像についてです。まぁ当たり前だよな…。
慧海の歌は文芸価値が微妙な一方で、彼自身の足跡の圧倒的ゆえに半ば無視されているように感じられます。
でもなぁ、せっかくあんなにたくさん詠んだのにほとんど相手にされないとか可哀想ですよ。ならば私がみたいな気持ちも、まぁ少しはあります。

さて、慧海の詠んだ歌を「短歌」と見るか「和歌」と見るかは少々微妙なところかもしれません。57577の詩形をBefor/After正岡子規で和歌/短歌、とざっくり捉える向きもありますが、子規と慧海はそれぞれ1867年/1866年生まれと同世代(慧海の方が1歳上)なので、ちょうど近代短歌勃興期にそれぞれ活動していたわけですよね。子規はその爆心地に、慧海は文字通りの辺境に。

実際慧海の歌を読んでいくと、古今集などへのオマージュと思しきものから時に狂歌も歌うなんでもアリな自由な歌風と見受けます。
慧海自身は僧籍にあり古文漢文に多く親しんでいたでしょうからフィールドとしては和歌に近く、それに短歌的な空気が自然と混じっているというのが実態かもしれません。

もっともその歌は技巧的というより朴訥、もっと言えば相当に素人くさいもので、歌人としては尖った文学者ではなく限りなく市井のそれに近いでしょう。ちょうど現代の、ある種のSNS歌人みたいに(私だよ!)、単に好きが高じて詠み散らかしていた節もあるので、なおのこと親近感が沸いたりもする。
ゆえにこそ「僧侶にして探検者」というハイパーアウトサイダーが、近代文学が激しく動いていたこの時期に、ほとんど斜め上ともいうべき隔絶された場所にただ一人あって一体にどんな歌を詠んでいたのか、文芸的価値は措いたとしても、それを見ていくのは実は結構面白いんじゃないか、と思っています。宮沢賢治の短歌が「近代短歌最後の秘境」と呼ばれていますが、慧海の歌も相当な秘境じゃないか、とも。

そしてもうひとつ。
私自身、文語が猛烈に苦手です。たぶんLv.1程度なので短歌でも旧仮名は積極的に避ける勢ですが、今回、ときに文語まじりの慧海の歌を、言葉を引きつつ読んでいくことで、あるいは古文の自習にもなるのでは?なんて目論見もあったりします。なので間違った解釈があったらごガンガンご指摘ください!

慧海の歌については後年、再度の入蔵を果たした際に記した「第二回チベット旅行記」の中に「雪山歌旅行」が合本されているのですが、ここでは最初の旅である「チベット旅行記」に記されている歌を、旅の時系列に沿って順番に鑑賞していきます。

てなわけで、ではでは始めましょうか!

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