コロナで浮き彫りになった社会とヒト
コロナによって、浮き彫りになったのは、一言で言えば”真の人の繋がりとは、どれなのか?”だと私は思う。
そして、『その人間関係はこれからのより良い人生にしていく中で必要か否か?』という選別が行われているようにも伺える。
『本当にあなたにとって必要か否か?』という問いを、誰しもが自分に問い続けなければいけない緊急的な状況になってきたんではないかと思う。
同時に、企業も必要か否かの選別が今必要とされていると思う。
『私たちの未来に本当の意味で必要かどうか。』
それは、もちろん人類にとってではない。『この世界において、つまりは地球にとって、全ての生命体にとって、本当に必要なのか?』を問いただす必要に駆られているのだ。
企業や消費者などの人類の存続の前に、地球があってこそ今までの社会という虚構は成り立つのだから、この問いは投げかけられなければおかしい話だと私は思う。
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社会が明確になってきて、自分も明確になってきた。
そして、私はそんな企業の選別と同時に、自分自身についても明確になってきた部分があると感じていて、不謹慎かもしれないが、この事態に少し救われた自分もいる。
社会で”要る・要らない”ものがわかってきたということは、自分自身の中の”要る・要らない”ものがわかってくることと同じだ。
”自分のやるべきことや、自分の本当に望むこと”がハッキリしてきたようなそんな感覚を持った。ここからは、自分の中の要る・要らないものを選別しながら、模索している文章を書いていこうと思う。
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私はヒトに興味が持てない人間だった。
正確には”興味を持たないように”しているかも知れない。
しかし、ヒトは”興味を持たないようにしている自分”には決して気付かず、”優しい人”だったり”誰も傷つけない人”、”年の割に落ち着いてる人”といった捉え方をした。
それはきっと、「誰も傷つけない。」という生き方はクリアし、その哲学は持っているため、『そもそも人類はどういう生き物で、ヒトはどうあるべきか。』という問いに達しているからだと思う。
「誰も傷つけない。」という術を知りながらも、客観的に俯瞰しているから、”優しい人”だったり”誰も傷つけない人”、”年の割に落ち着いてる人”といった印象を持たれるのだろう、と今の所の自己分析では思う。
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人間に興味を持つとき、二通りの興味の持ち方をしている。
ひとつは、純粋に”近しい人間”として関わり合いがあるが故にもつ興味
ふたつは、”人類”として見るような、文化人類学的観点での興味
つまり、前者は純粋に『自分と関わり合いが深く、関係を維持する。』という目的のために興味を持つ場合であり、
後者は『そもそも人類はどういう生き物で、ヒトはどうあるべきか。』という問いを知るという目的のために興味を持つ場合だった。
どちらか一方に偏るということもあるが、両方を持ち合わせている興味の持ち方をしている場合も大いにある。
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どちらが善い悪いという話ではなく、自分の特性を見極めるためにこんな風に自分の思考を言語化して解剖している。
こんなことを考えていると、きっと私は、文化人学的観点での”人類”にとても興味があり、人類がこの先作る未来についても一生学び続けていても面白いし、自分自身もそれを望んでいるんだろうなと感じた。
”好奇心を追いながら、理論的に考え続けていくこと”が、自分に向いている生き方でもあり、自分がワクワクできる望んでいる生き方なんだろうなと思った。
なので、やりたいことを決めたいときは”What”より”Why”を突き詰めるべきだと改めて感じた。
凄くわかりづらい話をしてるなぁと思いながら備忘録として残しておきたかったので、書きました。よくわからなかったらすみません。(笑)
読んでくれてありがとう、ではまた!