遺書No.580 主観に偏ることを許された空間で溢す「なぜ?は批判じゃない!」という愚痴。
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2006.2.4
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何らかの場で誰かが意見を述べると、
それが他の意見を否定していると受け取る人がよくいる。
例えば、
何かに対する「+」の意見を述べた時に
『じゃぁ「-」の事は考えてないじゃん!』
みたいにすぐ突っ込んでくる人。
あるいは、どうしてそうなったのか、今後のために原因の解消や改善のために確認したいだけなのに、その「なぜ?」の問いに対して自分が批判や否定されたみたいにムキになって言い訳や反論をしてくる人。
いずれも、場や状況などが絞られたテーマについて語る時には、大抵は暗黙で省略してよい部分や視点がある筈なのに、それを全く見抜けない人。
もっともっと言えば、討論や意見交換などディベートの場であげあしをとる人もそうだ。
話の流れからいって全く意味のない、生産性を持たない発言をされると、ホントに疲れるし、気分も冷めるし熱量も失われる。
とんでもなく自己中な言い方にすると、 1を言って10分かってくれと言うのではないのに、1を言って1が理解できない人がいる。
でもここまではまだいい。
不愉快なのは、理解出来ないだけでなく1の中身について見当違いの質問や反論をしてくる奴。
もうムカツク。
あ、話しがすげーずれた。
別に機嫌をとりながら誰とも仲良しこよしでやっていきたいなんて思わない。
不愉快だったりストレスになる奴とは関係を保ちたいとも思わない。
それが俺だ。
よく子どもの頃に学校とかで「皆と仲良く」みたいな事いわれる度に「皆んなとなんて仲良くなれるかよ!」と思っていた可愛くない子どもだったけど、今でも自分の感覚は正しかったと思う。
嫌いな奴は嫌いで仕方ないし、合わない奴は合わないと思うんだよね。
そんな奴と無理に仲良くする必要ないと思うし、無理して仲良くしようとするから、ストレス溜めたり心を病んだりするんだよ。
ただ、そうは思ってる俺だけど、仲良くしなくていいけど大切にはしなきゃいけない、とは思ってる。もちろん形式的な礼儀も含めて大事だと思ってる。
だから、嫌いな奴と無理に仲良くする必要も笑顔作る必要もないけど、正しいことは正しいと認め、必要なコミュニケーションなら必要なだけかわそうぜとおもう。
何が言いたいかって、嫌いな奴と仲良くする必要はないけど「理解する努力」はしようぜってこことね。
理解できりゃ腹立つのも少しは減らせるだろうし。
でも話が通じない人なら話を続けなくていいと思うんだ。
それをムキにならずに選べるようになれると思うんだね。
それと、少し話は変わるけど、似た部分でいうとこうも思う訳。
例えば日記とかブログって、「日記である」「ブログである」という時点で、 既に『主観に偏る事を許された空間』だよなーって。
例えば青について「信号の色」と答えたからと言って、 そいつに「海の色」という考えがない訳じゃない。「空の色は間違い」だなんても言ってない。
それを勝手に想像して言葉を補完して、勝手に怒ってたりする人がいるけど、スルーしてもいいし、気の済むまで説明してもいい。
そんなモノ。
自分の知る理論を形成する幾つかの論理の中の、 あえて『主観による論理』のみを書いてたりするだけ。
何が言いたいのか? って、もういいか…。
疲れるからね。
まぁでも、途中でつまらん論点ずらしや勘違い反論に邪魔される事なく自分の考えを一方的に発信できるメディアとして、ブログは優秀だよねってことですよ。
それでも有名人は不特定多数に晒されるので、その勘違い反論をする側も声がでかかったりして、或いはそれがマスメディアだったりするから大変だよね。
事務所とかスポンサーとかの柵も凄そうだし。
それでもブログはまだ書けるだけマシよね。
柵の縛りはウザくても、最終的には捨てる覚悟があれば主張だけはできるかもだし。
なんか話がズレたな…。
なんにせよ、なぜ?
こうやって、途中で自分で面倒になって話を投げっぱなしにするとこも俺らしい。