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いつか、誰かのために”残す”こと。

27歳で癌が発覚したとき、最も不安を感じたのは、情報の少なさであった。

病名に関する文献や記事は溢れているが、そもそも癌になる割合は高齢者が多いため、症例が若者に合致しないケースも多い。また、実際に体験した人の声も少なく、だからこそと言うべきか、いつか、誰かが残してくれた闘病体験との出会いが、心を救ってくれることがあった。どのような治療をしたのか、抗がん剤の副作用について、社会復帰後の生活は?などなど。熱を帯びた同世代の叫びが、私に病気に対する覚悟を抱かせてくれた。

先日、編集を生業とする友人と話した。語り手も読み手も傷つけない記事を作ることを心がけていると語る彼女に、「でも、多少過激なタイトルや記事を書いた方が読者に読まれやすいのでは?」と、私は意地悪な質問をした。すると、「いつか、誰かにとってその記事が必要になれば良いと思ってる」と答えてくれた。すぐに、そして沢山の人に読まれなくても、誰かが必要だと思ったときに情報に触れられること。綺麗事かもしれないけど、それが確実に人の心を救うことを、私は身をもって知っている。

もしかしたら死ぬかもしれないと言う状況下で、それでも”生きたい”と思えるその原動力は何か。それは、誰かにとって自分という存在が必要であって欲しいという願いだと思う。闘病生活の中で、最も考えているテーマがある。それは「残す」ことについて。

私の職業は花屋だ。花は、必ず枯れる。枯れるものになぜお金を払うか分からないと考える人が少なくないことも知っている。それでもこの仕事が世界中で存在しているのは、人は花に物質的でなく精神的な意味付けをしている証明であろう。いつか咲いた花が、いつか誰かの心に触れる。花が残してくれたのは、人から人へ、気持ちを伝えるための言葉だと考えるようになった。花は花としての命を全うしている。

私が未来のためにできること、それは生きて、言葉を残し続けることだと思う。それが感動なのか、理解なのか、悲哀なのか、安心なのかは分からないけど、思いがけない瞬間で役に立つかもしれないから。まずは闘病記は書き続けようと思う。

いつか、誰かのために。

今日も種を蒔きます。

#未来のためにできること





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