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【悪性リンパ腫・闘病記⑲】極めて花屋的な死生観

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「どうせ死ぬなら美しく死にたい」

人生で初めての感情、こんにちは〜。今まで筋トレやおしゃれになりたいと言った自分を着飾るような動機は、突き詰めれば全て”異性にモテたい”といった健全とも不純とも考えられる動機でした。果てはどうなるかと言うと「仮にモテたとして何の意味があるん?」と、目的を代償とする苦痛・費用・時間といったネガティブな側面を回避する言い訳を用意し、いつかは習慣が消え去っている、そんな人生でございました。

この思考はとても厄介で、様々なことが上手く行かずに精神が弱ってくると、すぐに「こんな人生、何の意味があるん?」と根拠不明な希死観念を脳に支配させ、人間関係を突然すっぱり切ったり、仕事を放棄したり、ベッドから起き上がらなかったり、それはもう酷い態度をたくさんとってきました。これを私は、「何の意味があるん?思考」と呼ぶことにします。

A「なぜ筋トレしてるんですか?」
B「カッコ良くなりたいからです」
A「それって何の意味があるんですか?」

こんな問答があれば、確実にBはAのことが嫌いになります。そして、Aの性根はきっと腐ってますね。Aは私であり、Bも私でありました。そして健全なBの精神はAに腐食され、結果的に自己嫌悪に陥るという絶望っぷり。この考え方は非常に現代社会と相性が悪く、「成長」を求められる学生時代や社会での思想と度々バッティングを起こし、その度に疲れてしまいました。

そんな私ですが、とあるきっかけがあって花屋になりました。

元々、花に対して全く興味がありませんでした。演技をやっていたとき、例えば舞台の時にはお客さんから、映像の時はクランクアップの時に花を頂く場面がしばしばあったのですが、正直に言えば、ラッピングを解いて花瓶に挿すと言った行動をとったことはありません。気持ちはもちろん嬉しいのですが、それは花を贈られた嬉しさではなくて応援されてたり感謝を伝えられた気持ちの嬉しさであり、物質的な嬉しさであれば、食べ物や雑貨の方が遥かに嬉しかったです。花屋になる前、花が好きな方へ花束をプレゼントするために人生で初めて花屋に行った際には、想像以上の値段の高さに驚き、「どうせ枯れるのに、花って貰う意味あるん?」と素直に思ったことをここに告白します。出ました、「何の意味があるん?思考」です。ちなみに花束を贈った方は嬉しくて泣いていました。

今でも考え方はほぼ変わりません。

だって枯れるじゃないですか、花って。

さんざん言ってきたし、これからも言い続けると思うのですが、「花より団子」って諺を考えた人は天才だと思います。理想的なものよりも、実利的なものの方が良いって考え方をなぜ否定できましょう。花屋になって「花を買う人の考えがわからん」とストレートに言われたことが何回もあります。その度に「わかる」と頷き、ちょっとだけ胸がキュッと締め付けられました。この痛みの正体は一体何なんだろう。

だって死ぬじゃないですか、人って。

何かを積み上げることに何の意味があるんでしょう。好きになって、嫌いになって、その度に感情が触れて、それに何の意味があるんでしょう。「生きるのが辛い」と友人から何回も相談を受けたことがあります。相談したこともあります。その度に互いに「わかる」と頷き、少なくとも私はちょっとだけ胸がキュッと締め付けられました。この痛みの正体は一体何なんだろう。

次の治療が始まるまでの約1週間、一時退院を許可されました。病院食とコンビニ食に飽き飽きとしていた私は、うどん屋さんに行きました。余談ですが、博多のうどんは美味いです。ラーメンより、うどん派。大学進学で福岡を離れてから博多のうどんがうまいこと知り、帰省したら必ず地元のうどん屋さんに行くくらい、好きです。定番の肉ごぼう天うどんは出汁がしっかり効いたスープに甘辛く炒めた牛肉のエキスが染み込んで至高の味でした。「美味しいご飯を食べること、これ即ち幸せなり」を合言葉に、退院期間中にたくさん博多グルメを食べることを決意しました。

結論を言うと、毎日嘔吐を繰り返しました。

ラーメンも、お好み焼きも、差し入れでもらったパンも、母が作ってくれた料理も、吐いてしまいました。突然の美食に胃がびっくりしたのかもしれません。でも、このように思うこともできますよね「どうせ吐くのに食べるなんて、何の意味があるん?」って。

思わなかったんです。

吐いても良いから、食べたい。ってたくさん思いました。好きなご飯を食べたいって心の底から思っていたから。

この気持ちから”食べる意味”を引くと、「悔いなし」って感情が残ることが分かりました。吐くかもしれないけど食べたいから食べたんじゃい、文句あるか!後悔などあろうはずがなかろう!って感じです。

人生で初めて自分のために買った花は「芍薬」でした。梅雨の時期に流通する花です。花屋さんに行くと蕾の状態で売っていて、値段は結構張りましたが、どんな花を咲かせるのかな?と好奇心が勝ったので買ってみました。数日後、家に帰ると手のひらくらい大きくてフリフリな大輪を咲かしていて、とても驚きました。2日後、食後に皿を洗っていると「ボトッ」と音がしたので振り向くと、可憐に咲いた花びらが全て地面に落ちていました。なんと潔い散り際だこと・・・と武士みたいな気持ちで心が一杯になりました。

そう言えば、羊文学は「人間だった」という曲でこのように歌っていました。

本当はわかっている 君もわかっている
花の一生にとって 君は必要ないこと

羊文学

だから、花に意味付けするのは人間のエゴだと思うけど、それでも私は人間だから、その芍薬の潔い散り際に人の一生を見た気がしました。種が発芽し、根を張り茎を伸ばし、破蕾し、美しい花を咲かせ、散る。これが花の一生であり、全てです。

幸運なことに27歳で死を強く意識する経験をすることができました。治療で最も苦しい時期には、「こんなに苦しい思いをしながら生きるって何の意味があるん?」と思いました。お爺さんが苦しそうに吐いている姿を見て、安楽死制度が日本でも確立しないかなと考えたものです。でも、簡単に死ぬこともできないし、簡単に死ぬ人もいるこの世で生きる意味って多分なくて、というか全てに意味なんてなくて、それを認めても良いのかなと抽象的ですが結論づけました。そして、代わりに人生には2つの「絶対」があって、それは「好き」と「死」じゃないかと。

「好き」から「意味」を引くと「悔いなし」
「悔いなし」を連鎖させると潔くて美しい「死」が待っているような気がします。

花に「好き」という感情があるかは分かりませんが、私は花が好きです。そんな花が「我が一生に悔いなし!」みたいに美しく咲いて枯れる様が好きです。死にたくない、ではなくて「美しく死にたい」って極めて花屋的な思考じゃ無いですか?私はこの考え方が好きです。

最後まで何が言いたいのか分かりづらい文章になってしまったことを詫びます。

要するに、

死ぬのは50年後か、10年後か、来年か、明日かわからないけど、いつか絶対に死ぬんだから、見送られる時はキレイな体で、死に際の言葉は「お疲れ様でした!」みたいな前向きな言葉で終われたら良いよねって話です。

とりあえず、今日からの治療頑張ってきます。

終わったら筋トレ頑張ろうと思います。






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