いつかのある夜
介護の話を久しぶりにしよう。
わたしがグループホームという、認知症の高齢者が何人か集まって暮らす施設で働いていたときのこと。
ある恐ろしい夜のこと。
あれは悪夢のような夜だった。
その話をする前に、レビー小体型認知症、という認知症の種類があることをご存じだろうか。
認知症にもいくつも種類があって、レビー小体型認知症はアルツハイマー型認知症に次いで多いとされる。
大脳にレビー小体という異常なタンパク質が多く発生することで起こる認知症だ。
この認知症の特徴的な症状はまず、幻視、つまり幻覚が見えてしまうということだ。
それから、認知機能が著しく変動する人が多い。物事がはっきりわかり、わたしたちと同じ世界を共有できるときもあれば、幻視があらわれ、認知の歪んだ世界にいるときもある。
また、人によってそれぞれ起こることが違う。
脳がひとりひとり違うのだからそりゃそうなのだけれど。
さて、それを踏まえてある夜。
わたしは夜勤だった。
出勤していつものように穏やかな夜を迎えた。
わたしが誰もいなくなった集合スペースを掃除しているとがしゃんと音がした。
素早く音がなった部屋の様子を伺う。
この部屋は、レビー小体型認知症で60代の小柄なおじいさんの部屋だ。
小柄だけれどスポーツをしていたらしく足腰もしっかりしている。
彼は認知がはっきりしているときはとても紳士で、荷物を運んでくれたりと優しいおじいさんなのだが、ひとたび幻視が現れると顔が真っ青になり、ぶつぶつとなにかを呟きながら、目がつり上がっていって別人のようになってしまう。
認知機能がぼんやりと滲み出して、彼はさらに幻視と妄想をほとばしらせ、違う世界にいってしまうのだ。
その世界ではわたしは昔彼を裏切った娼婦であったり、毒を盛ろうとする恩知らずの娘だったりするようだ。
今までも、そうなると部屋にこもってしまったり、わたしたちスタッフを睨み付けてなにも喋らなくなってしまったり、おやつを投げ捨ててしまったりしていた。
そっとドアを開けると、彼は奥さんの写真が飾ってある写真立てを床に叩きつけていた。
無惨に砕かれた写真立て。
振り向いた彼の目を見たとき、ぞくっとした。
いつもと違う。
「だれだ……!だれだおまえは……!」
わたしはとっさにドアを閉めて胸にかけているコインで外側から鍵を閉めた。
ドアの鍵は基本的に内側からレバーを倒すとしまる作りになっていて、外側からは緊急でドアを開けたい時のためにコインで開閉できるような溝がついている。
興奮しているので鍵に気づくまで少し時間を稼げるだろう。彼は叫びながらドンドンと扉を叩いている。
わたしは寝たきりの人の部屋に駆け込んで「鍵、しめるよ、後で来るからね。」といって鍵を外から閉めてまわる。
何事か、と起きてきた人を部屋にもどし、「静かに隠れていて。絶対に開けないで。」といってなんとか最後の部屋に外から鍵をかけた。
緊急コールをならす。他のフロアのスタッフの携帯コールがピロピロとなって異常事態を知らせてくれるだろう。
その直後、バーン!と彼の部屋のドアを叩き開ける音がした。
こっちに走ってくる彼は砕けた写真立てを振りかぶっている。
「てめぇ!俺を騙しやがったな!殺してやる!」
恐怖ですくんだわたしの脚に彼が投げた写真立てがぶつかった。
大きなテーブルを挟んで対峙しあい、追いかけてくる彼から逃げ続ける。
そのとき、やっとほかのフロアから駆けつけた男性スタッフが彼を取り押さえようとした。
彼はそのスタッフを押しやり、奇声をあげながら手近にあったダイニングの椅子を持ち上げた。
わたしたちは慌てて後退り、テーブルの向こうへまた逃げ込んだ。
「こうなったら俺がなんとか防ぐから、その間に連絡して!」
わたしたちは決死の覚悟で二手にわかれた。
男性スタッフと彼が揉み合っているあいだに電話をかけ、管理者に応援要請を頼む。
「10分持ちこたえてくれ。」
そのとき、ガラッと音がした。
絶対に開けないで、といった言葉を忘れたおばあちゃんが部屋から出てきてしまったのだ。
絶望した。
もう無理だ。わたし怪我したくなかったし、させたくなかった。だけど、無理だ。
わたしは咄嗟にバスタオルをひっつかみ、蹴られるのも構わず暴れる彼の脚に飛び付いて倒し、大きなバスタオルを脚にぐるぐる巻いてなんとか脇で締め上げた。
上半身は男性スタッフが羽交い締めにして、なんとか動きがとまった。
その後、応援が来て、主治医の先生が来て、薬を飲ませたりしてなんとかおさまったけれど、わたしの腕や肩は痣だらけ、手には切り傷、男性スタッフも殴られたところをさすっていた。
彼はしばらく精神科に入院することになったけれど、わたしたちにはなにも、ない。
恐怖と痛む身体。
突然の豹変。
なんて過酷な仕事だ。誰のせいでもないのに。涙がこぼれた。
だけど、思った。
もしも、彼が暮らすのが同年代の奥さんしかいない家だったら?
どうなっていたのだろう。
考えるだけで恐ろしい。
介護はこういうことも起こる。
難しい難しい、覚悟のいる仕事なのだ。
でもよかった、彼に怪我がなくて。
よかった、家じゃなくて、奥さん相手にこうならなくて。
他の人もなんとかみんな守れてよかった。
震える手を握りしめて、長い夜は明けた。
介護は大変だ。本当に大変なのだ。
家族で介護している人、たくさんいる。
こういうことが家で起こってしまうことだってあるのだ。
後日施設を訪れた奥さんはわたしにすがって泣きながら痣を撫で、女の子に傷を残してしまったと謝って謝って溶けてしまいそうなほど泣いた。
彼は優しい人だったのだ、人を傷つけたことなど一度もなかったのだと言って。
あの夜のこと、あの奥さんの顔、思い出して、そんなことを思って、今でもわたしは時々涙が出るのです。
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