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【読書記録】『ナショナリズムとジェンダー』上野千鶴子

『ナショナリズムとジェンダー』(新版)
上野千鶴子 岩波現代文庫 (2012/2022)

現代の課題に切り込んできた偉大な社会学者であり、フェミニストとして道を切り開いてきた上野千鶴子氏。
1998年の単行本『ナショナリズムとジェンダー』に加え、日本の戦争と女性にかんする論考、そして「その後の『従軍慰安婦』問題」など、戦争・国家・ジェンダー・歴史の問題に対する考察が収められています。

以下は本書の主要部分である第一部と第三部についてのまとめと覚書です。

■第一部 ナショナリズムとジェンダー

・国民国家とジェンダー
《歴史とは、『現在における過去の絶えざる再構築』である》
歴史は誰のものなのか――戦時下の歴史記述をめぐる論争、とりわけ女性史、とくに「慰安婦」問題は、この問いにさらされ続けています。
国民国家最大の事業である総力戦のさなか、さまざまな媒体を通して女性は「国民化」されていきました。女性にとっての兵士並みの務めとは「従軍看護婦」「靖国の母」になること。諸階級の女性のそれぞれの戦争協力姿勢を調べると、総動員体制が「もろもろの女性問題」を一挙に解決する「革新」と目されていたことがわかります。多くの婦人運動は「女性の国民化」を要請したのです。しかしこれは国民国家が女性に押し付けた背理で、女性の解放は不可能でした。なぜなら「女性」は近代国民国家の〈創作物〉だからです。この「女性」さらには「男性」概念を解体するために「ジェンダー」という変数を発見したのがフェミニズムだったというわけです。

・「従軍慰安婦」問題をめぐって
「従軍慰安婦」問題は国民国家とジェンダーをめぐる究極的な問いです。「公共の記憶」の構成をめぐる歴史の方法論自体にも鋭いメスが入れられます。この問題を読み解くパラダイムは、家父長制パラダイム、男のロジック、戦時(非常時)加害行為免罪パラダイム、売春パラダイムとこれを否定する性暴力パラダイム等々、多様で複雑に絡み合っています。さらに「民族」そして「対日協力」といった要素も加わり「従軍慰安婦」問題は非常にセンシティブな性格を帯びます。「真実」は唯一のものではなく、さまざまな当事者によって経験された多元的なリアリティであることを鑑みずにこれらを論じることはできない。つまり思考停止に陥らずに開かれた議論を続けることしか方法はないのです。

・「記憶」の政治学
「慰安婦」の記述をめぐる問題。著者は日本版「歴史修正主義者」たちの主張の矛盾を突きつつ、その大国主義とナショナリズムに基づいた言説に対する批判を展開します。この「記憶の内戦」は、フェミニズムやジェンダー史の成果に対する挑戦として重く受け止めなければならないからです。被害者の証言だけで公文書資料が存在しない「慰安婦」強制連行を、「事実」であったとは認められないとする、「実証史学」もどきの言説の欺瞞が暴かれます。公文書は時の権力の都合次第で処理・破棄されるものであり、事実をそのまま映し出しているとは限らないのです。過去を現在からいかにして裁けるのかという問いは、歴史は思想的なパラダイム転換により「作られ」たり「書き変えられ」たりする、という認識から出発しなければなりません。女性史は、文書資料至上主義批判に出発し、女たちの「沈黙の声」をどう語らせるかを探る営みでもあります。女性や弱者は沈黙させられ、沈黙を破った証言者の尊厳は踏みにじられる社会。その根源にあるのは家父長的制度です。強者にとっての「現実」と被害者の「現実」のあいだの軋轢、それこそが真の〈現実〉の姿であるというしかありません。

■第三部 「その後の「従軍慰安婦」問題」

・記憶の語り直し方
公共の記憶はどのようにして語り直すことができるのでしょうか。エイジェンシーの回復や犠牲者性の構築など、〈フェミニズム文学批評〉の諸概念は大きな成果をもたらしました。〈反省的女性史〉では「被害者史観」から「加害者史観」への移行がなされ、民族差別が韓国女性に二重三重の抑圧を与えている環境下の日本女性の立ち位置も問われています。さらに、〈ポストコロニアルな歴史学〉では日本人の記憶の語り方そのものが検討されています。語り手としてのエイジェンシーを回復し、どんな立ち位置にコミットするのかを明確にしたうえで、女性中心の記憶を語ることは可能なのです。
元「慰安婦」の女性たちの証言はいわば、個人史の語り直しです。そしてこれは事実を証明する手段以上のものであるとみなすことができます。それは男性中心的で女性が不在の〈マスター・ナラティブ〉に対抗する歴史を突きつけ、女性の歴史が男性の歴史や公共の記憶の補完物や一部ではないことを示すものです。男性中心的な言葉の定義から女性目線のパラダイムにシフトしてメッセージを届ける。そしてこのときに重要になってくるのは自分のポジショナリティ。自分がコミットするのはジェンダーか民族か階級か、それともこれらの複合か、といった語る「わたし」の立ち位置を明確にすることが議論の前進に貢献するということです。

・「民族」か「ジェンダー」か?
ナショナリズムと慰安婦問題についてのシンポジウムにおける「上野発言」に対する、各研究者からの疑問や批判をとりあげ、これらに回答しつつ議論を深める試み。著者は、誤解や短絡的解釈を許してしまったのは自身の言説戦略の失敗と表現力の弱さがあったと認めます。
とはいえ『ナショナリズムとジェンダー』を正しく読んでいればこのような誤解や「想定」は生まれないだろうという指摘、誤読や発言の独り歩きや発言の解題を求められる徒労、任意の問題について「上野的な言説の想定」が恣意的になされることへの戸惑いも語られます。(影響力の大きい言論人の運命でしょう)。
《「民族」を言えば「ジェンダー」を無視したことになり、「ジェンダー」を言えば「民族」を忘れたことになる。というこの「強いられた対立」からどうやって抜け出すことができるのか》(301)
どうしても人は二項対立に依拠したくなるものなのです。
《フェミニズムを「ジェンダーを最優先する思想」と解釈したがる人びとの誤解をどうやって避けることができるのか。わたしの主張は現実の多元性への要求と同様、方法論においても多元性を要求するつつましいものである》(301)
主張と方法論において一貫性を持つ――この姿勢を欠く議論は自己矛盾をはらんでいるということでしょう。
以上の引用は、あらゆる思想の展開において不可欠な態度を示しています。

■以下は、個人的に大事だと思ういくつかのキーワードです。

・被害者のまなざし/語り
オーラル・ヒストリーの研究における問題。以前取り上げた『アイヌがまなざす』(石原真衣/村上靖彦、2024)にも述べられていますが、被害者の語りは聞き手との関係性に強い影響を受けるのだそうです。
《弱者の立場におかれた人間は強者としての聞き手のききたい物語を語る傾向がある》(178)
また告発した勇気ある被害者女性たちへのヘイトだけでなく彼女たちを「モデル被害者」の概念にあてはめがちな聞き手の態度は、告発しにくい環境をつくります。もちろんこれはどんな性暴力においても当てはまること。構造化された暴力をめぐる証言と言語表現の難しさをつくづく感じます。

・国家と個人の尊厳
元「慰安婦」は「わたし」の尊厳を回復するために闘う。それは国家に対する闘いでもある。「わたし」とは、
《「国民」でもなく、あるいは「個人」でもなく。……ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合》(199)
であり、身体や権利は国家に属さず、利害は国家によって代弁されるものではないのです。
このことは女性だけでなく男性の人権にとっても当然同じであるならば、国家のために殺人者になる男性もまた人権を侵害されているといえるでしょう。「慰安婦」問題を考えることによって、あらためて戦争自体が犯罪であることを思い知らされます。

・他者に対する無自覚な残酷さ
《「慰安婦」との「交情」をなつかしげに語る元日本兵にとっての「現実」と、「慰安婦」経験を恐怖と抑圧として語る被害者の女性にとっての「現実」のあいだには、埋めがたい落差がある》(140)
元日本兵と被害者女性の関係は、ナボコフの小説『ロリータ』の語り手ハンバート・ハンバートとその義娘ロリータの関係と構造が似ている気がします。自分だけのロマンの世界に没入し他者の心/尊厳を完全に無視した残酷な支配者とその生贄、という構図です。このような「犯罪」では、加害者の無自覚が被害者の無気力に陥れ、外部からその全容を見えにくくします。

■最後に
歴史とは何か。記憶とは何か。自己と他者は同じ歴史を共有できるのか。これからも本書を読み返しながら考えていきたいと思います。

■同じテーマで最近読んだ文
『世界』岩波書店 2025/01 「性暴力と女性たちの声――日本軍「慰安婦」問題の三〇年」古橋綾
この30年間、「慰安婦問題」がどう注目されてきたか、何が解消されていないかが述べられています。問題は、《日本は韓国やアジア諸国よりも優越しているという考え》、そして《性暴力とはいったい何であるのかについての議論の不足》にあると指摘されています。

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