「経営者は孤独」という毒。
「経営者は孤独」というレトリックが嫌いだ。
このレトリックは人を遠ざけ、組織を蝕む毒だと思う。
明確な出典は見つからなかったけど一般的に言われているものらしい。
経済学者のピーター・ドラッカー氏(1909~2005)は「多くの経営者が孤立感を感じることがあり、これが意思決定のプレッシャーを増す」と述べている。
また、経営の神様である松下幸之助氏(1894~1989)は「最高責任者は好むと好まざるとにかかわらず、心の上にいろいろなさびしさが出てきて、いわば孤独な立場になるということが言えます」と語ったそうだ。
ただ、ニュアンスはどちらも孤独「感」への言及だと感じた。
インターネットで検索してみると部長も孤独、課長も孤独、従業員も孤独、みんな孤独感を感じている。さらに「孤独」について名言を集めてみた。「孤独」は魅力的なようである。少し長くなるけど引用する。
どうやら人はそもそも孤独であるようだ。この名言をふまえても「孤独」は経営者だけが特別に感じると思うだろうか。私もそうは思わない。1人の人間として生まれたからには孤独はつきまとっている。特別ではなく、どうつきあうかの問題だと思う。
あらためて辞書を引き定義の確認をしてみる。
物理的と精神的の2つの意味がある。しかし、精神的孤独は人との出会いや対話でなんとかなりそうだ。だから真の孤独とは「ひとりぼっち」だと思う。
精神的孤独は簡単に感じることができる。誰とも話さなければいい。そうしたら、いずれ「わかってくれない」と孤独感に転ずる。
経営者がよく使う文脈は「雇う」と「雇われ」の関係だ。
しかし、見ているものが違うなら価値観が異なるのは至極当然。立場が違うなら価値観はそりゃ違う。雇用の関係だけではない、見ているものが違う。
それをすり合わせもせず、相手の価値観を受け入れず、自分の価値観が受け入れられないから、「孤独」と言うのは大げさではないだろうか。
ましてや「私は孤独」という認知は人を遠ざける。遠ざける人には、気を使う、忖度する、当然飲みに誘いたくない。それが「やっばり孤独なんだ」と認知を強固にする。孤独にアンテナをあわせると至るところに符号を見つけだす。そんな器用さをもっている。
見ているものをすり合わせしない。
まるで2Fから1Fに向けて会話しているようだ。
「ほらあれが見えるでしょ」、見えるわけがない。
孤独とは「ひとりぼっち」ということだ。それ以外は孤独感でしかない。歩み寄りを辞める危険な言葉だ。
それなのに、決裁権、人事権、権力がある経営者が「孤独」という易きに流れ、遠ざけている。それが嫌なのである。
孤独を感じたら「本当にひとりぼっちだろうか」と疑ってほしい。
お互いに「まだ歩み寄れていないだけじゃないのか」と。
もちろん経営者特有の孤独はある。「決断」がそれにあたる。
「決断」とよべる選択は、1人で行うことになる。多数決に委ねることはできない。だから最終的に決断する人は独りぼっちだ。決断は孤独で行うものである。それは大変な仕事であり、仕方のない責務だ。しかも量、質ともに多くて重い。
「決断する時、経営者は孤独である」。
しかし、それ以外はなんとかできる孤独感ではないだろうか。
価値観を伝える工夫をせず、大雑把に孤独とくくり、安易に腑に落ちる言葉で人を遠ざけないでほしい。
繰り返しになるけど、頭の中を共有できないかぎり人間は孤独になりうる。経営者が特別ではない。そして、遠ざけてしまえば孤独の符号は簡単に見つかる。しかしだ、経営者にはその「孤独感」に工夫の余地がないのか、価値観を伝える術が本当に尽きたのか思案してほしい。
「経営者は孤独」は、いずれ本当の孤独になるレトリックである。孤独だと思うほど、そのあとの言動は諦めの匂いがして、従業員により分厚い壁を感じさせ組織の活力を削いでいく。そしていずれ本当のひとりぼっちにさえなりうる。それは望んでないでしょう。
「経営者は孤独」というレトリックは組織を蝕む。それは毒だと思ってほしい。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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