傾聴を考えていたら『アンパンマンのマーチ』に震えた。
さえぎらない、話の腰を折らない、批判しない……。「傾聴」のテクニックをよく目にする。まるで組織を救う奥義のような勢いだ。そんな機会が多くなると、天邪鬼の気質が「本当に?」と問いかける。
※この投稿は『夜と霧』のネタバレを含みます。
いろいろと思案していると「何が君の幸せ~ 何をしてよろこぶ~ わからないままおわる そんなのはいやだ」と頭の中で流れだした。『アンパンマンのマーチ』だ。
「あぁ、傾聴で大事なことはこれだよ、まず心の姿勢だよ」と思い、歌詞を調べた。すると、なんと素敵な歌詞だろうか。
それでは、傾聴の話は終わりにして、ここからは『アンパンマンのマーチ』の感動を伝えたい。
「そうだ」この3文字がすでに凄い。前提として物語があるからこその「そうだ」だ。苦悩から希望を見出したのか、平穏な日常にふと幸せを噛みしめたのか、何かがあったのだ。気づきか、覚悟か、それとも絶望なのか……。いずれにしろ何かがあったのだ。世界が色づいた瞬間と言うべき何かがあったのだ。
「たとえ、むねの傷が痛んでも」をふまえると、生きる喜びを取り戻すことができたと思う。やはり、何かを乗り越え、歩みだしている。
何のために生まれたのか、何をして生きるのか。これに続くのは「わからないままは嫌」ではない。「答えられないなんて嫌」なんだ。正しい、誤りではなく、答えられないのが嫌なのだ。これは『夜と霧』を読んで僕が打ち震えたところと同じだ。
僕は生きる意味に何か特別なことがあるんじゃないかと探していた。「神様は越えられない壁は与えない」と云う。「人生なんて暇つぶし」とも云う。わからない。奇跡も不条理もある中で、いろんな人が生きる意味を解釈して伝えてくれている。それでも、よくわからない。
人が人間ではないものの意思を推しはかることはナンセンスかもしれない。そもそも意思があるのかさえわからない。本当の答えはあるのかもしれない。探すことでこそ意味が生まれるのかもしれない。
でも、生きる意味を探すことは、それが、自分の「外」にあるという固定観念を意味している。自分をおいてけぼりにしている。漫画『鬼滅の刃』で言うなら、「生殺与奪の権を他人に握らせるな」だ。
人事を尽くして天命を待つ。コントロールできないことはできない。それにとらわれて、言い訳をしても仕方ない。コントロールできることに全集中する。天命なんて知ったこっちゃないという気概、その矜持を感じる。
今を生きること「で」、熱い心が燃える。今を生きることが心を燃やすことなんだ。過去にも未来にも、心を燃やすことはできない。心を燃やすことができるのは、「今」しかないんだ。そして燃えた、「だから」こそ、君は行く。微笑みながら。
あぁ、君は希望に満ちている。
この「そうだ」は、おそらく「生きることの問いに正しく答える義務」への覚悟だ。生きることでしか「嬉しさ」や「喜び」は存在できない。命あっての物種である。生きること、すなわち、未来に「行く」ことを選択した。たぶん、これは「自由」に近い。
そして、優しさとは何か。アンパンマンは優しい。「やさしい」とは、厳しく無いということではなく、寛容ということでもない。ましてや「弱さ」なわけがない。「やさしい」とは、みんなの夢をまもることなのだ。誰かの希望を守ることなんだ。
『アンパンマンのマーチ』は自由の歌だ。希望の歌だ。未来を守る歌だ。
凄い。そして、行こう!
『アンパンマンのマーチ』は2番、3番へと続く。是非、今の自分で解釈をしてみて欲しい。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
足跡を残していただければ幸いです。
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