すきを知ることは
写真と出会って撮り始めて、新しいことに出会える楽しさと
新しいものを見つけていかなくては…。と思う気持ちに息苦しさを覚えていたころ、
すき
という気持ちを思うことが多くなった。
趣味なのだから、単に楽しく・好きに・思うままに
目についた輝きを写しとればいいのではないか
という気持ちと、
それじゃダメなのではないかという思いと、
いいじゃんそれで、という二つの間で揺れていた
今も少しそれは続いている。
写真を介して知り合う方の中には、
『人には、自分が写真をしていることを知られたくない』という方もいる。
世間をしらなかった年のころだったら
「なんで好きって言わないだろう。いいじゃん別に」
と、思ったことだろう。
人にはそれぞれ事情がある。
この年になれば、そこにとやかく口を出すことでないこと位は
分かるようになった。
それが「わたしはこれを好んでやっている」ということでさえも。
「すき」ということにも、そこには様々な「すき」という
色や匂い、形や光、選択肢がある。
そんなに好きじゃなくても、全否定ほどではない「すき」
無条件で心がほかほかする「すき」
きらきらなものもあれば、
さびしく切なくても ままならない「すき」
かと思うと
自分がなにが好きなのか、どう思っているのか
本当のところは よく分かっていなかったりする場合もある。
好きだと思っていたところ、その実は別にそうでなかった…ということもある。
自分は なにが好きなんだろう
それを どう思っているんだろう
気になるのは 好きだからなのかな
どんな風に していきたいんだろう
すきなものを「すき」と言いあらわすことは
自分を知っていくこと、表現していくことなのだろうと思う
自分の目で、直接自分の姿をみることは叶わないから
誰かのことだったり
その日々過ごす中で出会うものを
うつし鏡にして
なんだ、そんなこと当たり前じゃないか
と思われるかもしれない。
けれど、毎日の忙しさに流され続けていると、
微かな感情は、たしかな想いへ成長する前に見えなくなってしまう。
たまには、ほんの少しのあいだ
テレビもラジオも動画も音楽も、あらゆる情報とのアクセスを止めて
自分の「すき」と話をしてみる
そんなことが、きっと
本当にしたいことを見つけていく手がかり…なんだろうと思う。