「深く」学ぶことは自分自身の前提を変えていくこと
先日の松葉舎の授業では、千葉雅也 氏の著書である『勉強の哲学』の内容を紹介する講義があった。
この本に書かれていることで、塾長の江本さんがたいへん評価していたのが、はじめに「深く学ぶことのマイナス面を説明している」というところでした。
江本さんの説明によれば、この本で言う「勉強」、「深く学ぶこと」にはマイナスの側面があると言います。
まず、自分のそれまでの前提や生き方の軸といったものが揺るがされます。今まで楽しく生きていたなら、「あれ?ちょっと待てよ」と揺るがされることで、今まで通り楽しむことができなくなるかもしれません。
このことを、本書では「勉強は獲得ではなく喪失である」と表現しています。
次に、深く勉強をすることで「ノリが悪くなる」と言います。今まで他のみんなと一緒にある出来事に対して楽しんだり、喜んだり、不平を言ったりしていたことに対して、「待って。それって本当にそうやって解釈すべきことかな?」と言わば「水を差す」ことが勉強には必要になるからです。「水を差す」とは今までの前提を疑うことなので、今まで通り皆と前提を共有できなくなるのです。
そのため、「ノリが悪くなる」、つまり今までのように円滑に人間関係を築けなくなる可能性があります。
そうしたデメリットがあるため、著者は「勉強とは誰彼かまわず勧めていいものではない」と言います。
もちろん、深く勉強することのメリットがあるため、著者は基本的には深く勉強することを勧めているのですが、必ずしも全ての人に必要なわけではない、ということを最初に明言している点を江本さんは評価していました。
私はこの話を聞いて仏教にも当てはまる話だな、と思いました。仏教も千葉氏が言うところの「勉強」と同じで、全ての人に勧められるものではない、と私は思います。
仏教は苦しみを無くす実践を提示します。しかしそれは、例えば「お金が無くて苦しい」と言っている人に対して、お金を稼ぐ方法を身に付けさせることで解決する解決策ではありません。そうではなく、「お金が無いことを苦しいと感じる認識を変化させる」という解決策です。苦しみは無くなりますが、依然としてお金は無いままです。果たして、こういう解決策を望む人がどれだけいるのか、ということです。お金が無くて苦しい人は、お金を得る方法を学ぶことでお金が無い苦しみを無くしたいと思っていることが多いでしょう。
お金が無い、というのは一つの例ですが、他に例えば人から認められないとか、人間関係がうまく行かない、といった悩み・苦しみがあったとして、仏教は「そもそもそれを苦しいと思うその心(認識)を変えましょう」という解決策を提示します。たしかにそういう解決策を求める人もいるでしょうが、それよりも人から認められるように能力を磨く方法とか、人間関係を円滑にするためのコミュニケーションスキルを身に付ける方法とかいったものを求める人も多いでしょう。後者のようなものを求めている人に仏教の示す解決策を提示しても、自分の望む方向性と異なっているため仏教の修行は進まず、苦しみが増してしまうこともあります。
文章にすると、何を当たり前な、と思われるかもしれませんが、本人としては真剣に、しかし傍から見ると的外れな道を歩んで苦しんでいる方が確かにいます。
仏教においては「仏教の教えは全ての人に勧められるものではありません」という注意喚起がなされることはあまりありません。菅見の範囲では、特に僧侶の方の説法においてそれが言明されることはまずありません。
このことが仏教に救いを求めて逆に別の苦しみを生じさせてしまう人たちを生み出している一因にもなっていると思います。
それと比較して、著者の千葉氏が初めに自分が勧める「深く勉強する」ということのデメリット、弊害を説明されているのは極めて親切であるし、適切にこの本の対象者に言葉を届けようとする真摯な態度であると感じました。
次に、千葉氏が提示する「深い勉強」の具体的な方法についての解説がありました。著者によれば、具体的な方法として「アイロニー」「ユーモア」「ナンセンス」の3つがあると言います。
「アイロニー」とは根拠を問うことです。
例えば、有名人の不倫が発覚してニュースになったとします。多くの場合、一般の人は不倫を行った有名人を糾弾するでしょう。「アイロニー」とはこのときに「不倫はそもそも悪なのか?」という問題提起を行う態度です。
誰もが「不倫は悪いことだ」という前提で話を始めるときに、その前提の根拠を問う態度が「アイロニー」です。
「アイロニー」が垂直方向への掘り下げであるとしたら、次の「ユーモア」とは横方向に意味をずらすことを言います。
例えば恋人同士のAさんとBさんがいたとして、その二人が喧嘩したとします。そのとき、どちらかに与したり、仲直りさせようとするのではなく、「これって音楽だよね」と表現するような態度です。この「音楽だよね」という表現には、時に不協和音が入ることがその曲の深みを増すようなことがあることになぞらえて、一時の喧嘩も二人の仲の彩りであることを表現しています。
それは、アイロニーのように「そもそも喧嘩とは何か」と言った掘り下げとは異なり、喧嘩をしている前提はそのままで、その状況の意味をずらすことで意味合いを変える態度です。
しかし、ユーモアによる意味のずらしは、音楽に例えるだけでなく、南極探検や人類学になぞらえるなど、ずらす例えは無限にあるわけで、延々とずらし続けるとどこにも辿り着かなくなってしまいます。
その無限のずらしを有限化するのが「ナンセンス」です。
ナンセンスはその人固有の好き嫌いや拘りのことです。
ユーモアは理屈の上では無限にずらし続けることができますが、実際には人それぞれの好みや得意とすることによって有限化されます。私で言えば、ある出来事を仏教で例えたり林業で例えることはできますが、儒教で例えたり、民俗学で例えることはありません。それらに対する知識や思い入れが無いためです。
そのため、ナンセンス=思い入れ・拘りによって、ユーモアは有限化されるのです。
しかし、その個人の拘りもずっと変わり続けないわけではありません。最初のアイロニーに立ち返るなら「なぜ私はそこに拘りや思い入れがあるのか」という根拠を問うことができます。自分の拘りに対して根拠を問うことで、拘りが変化し得るのです。
江本さんの解説によれば(正確には私が理解した江本さんの解説によれば)、このアイロニーによる掘り下げ、ユーモアによる水平方向へのずらし、ナンセンスによる有限化、そして再びアイロニーによってナンセンスの枠を崩す、という3つの方法の循環が著者の千葉氏の言う「深い勉強」の方法であるとのことでした。
また、ナンセンスの拘りの部分は体験や経験から直接生まれるのではなく、言語化を通して作られてきます。言語化を私なりに言い換えると「価値観」「世界観」「文化」「思想」「哲学」といったものになるかと思います。
そのため、言語化に用いる「言葉」を新たに学ぶことで、体験や経験の再解釈が行われ、拘りや好き嫌いも変化していくと言います。この場合の「言葉」は哲学や新しい知見です。つまり、哲学や文化人類学などの学問を修めることで新しい「言葉」を学び、それによって過去の自分と出会い直すことができるのです。
「アイロニー」「ユーモア」「ナンセンス」の3つの方法を用い、新しい「言葉」を学び、過去の自分と出会い直し、今の自分を新しくしていく運動の総体を、著者の千葉氏は「深く勉強する」と表現しているのだと、私は理解しました。
江本さんの解説を聞いて、私は「なるほど、これはたしかに全ての人に必要なものでは無いな」と最初の話に立ち返って思いました。
千葉氏が提示しているのは自分自身の変化の仕方、それもかなり根本的な変化を継続的に起こしていく実践方法です。自分の中の好き嫌いや拘りに何の疑いも持たず、そして現状において十分人生を満喫できている人にとって、この千葉氏の方法は不要であるどころか有害でさえあるでしょう。今までうまく行っていたのに、この実践はその前提を変化させてしまうため、今まで通り上手くいかなくなる恐れがあります。
逆に、現状に満足できていないものを抱え、何とか変えたいと思いつつも変え方が分からない、という人にとっては有益な方法かもしれない、と思いました。
そしてそれは、どちらが偉いとか優れている、とかいう話でも無いと思いました。現状で人生が楽しく過ごせている人はそれで素晴らしいですし、現状を変えたいと思っている人はこの実践をして自分を変え、人生を楽しく過ごせるように変わる方がいいでしょう。それはその人がどう生きたいかによるのであって、そこに優劣貴賤は無いと思いました。
私は、自分を変えたいと思って仏教を学び修めている者なので、千葉氏の提示する方法を取っているわけでは無いですが、目指す方向は千葉氏と似ているのかな、と思いました。
特に「アイロニー」「ユーモア」「ナンセンス」の3つの方法は面白いものだと感じたので、何らかの形で私も取り入れたいと思いました。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!