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『TAR/ター』:被害と加害は共謀する。

ネタバレを含みます。あしからず。

ケイト・ブランシェット演じる本作の主人公、リディア・ターの経歴はとても変わっている。
音楽教育を受けた後、なぜかアマゾンにて先住民の音楽療法を研究した後、音大以外の大学で学位を取得し、音大(院のほうだったか?)に戻り、その後複数の音楽賞を総なめにしたEGOTの偉大なる指揮者15人として、指揮台の上でキャリアを積み上げているのだ。
こんな指揮者、いる?
私は知らない。
作中でカラヤンやバーンスタイン、フルトヴェングラー、現役の指揮者としてはドゥダメルやデュトワ等の名前が上がるが、アマゾン現地で月日をかけて音楽研究をした履歴を持つマエストロは、この中には一人もいない。

不思議なマエスト”ラ”、リディア・ター。
オープニングで、彼女自身が自分の指揮について語るシーンがあるが、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
私は指揮者のインタビューが好きでたまに聞いたり読んだりしているが、時代についての解釈こそあれ、「時」という言葉はあまり聞かない。
指揮者はもっと音楽に対して情熱的である。スコアに関係あるなしは二の次で客の印象に残るように強烈な曲として仕上げるか? ではなく、スコアに内在する美しさを引き出すことに一生懸命だ。まるで自分こそが作曲家の唯一の理解者であるかのような発言が多く、曲への愛情が暴走した結果、聞いたこともないような交響曲に仕上がってしまった…というケースは往々にしてあるが。スコアを無視して、目立つ演奏をわざと楽団に課す、なんてことはあるのだろうか?
「時」の過ごし方、なんて気にする指揮者はどれだけいるのだろう? それよりも曲のテンポや調と楽器のハーモニー、作曲家の置かれた時代背景についてを熱く語るのではなかろうか?
「時」について、カラヤンを意識したのかもしれないけど、微妙にずれている。

何が言いたいかというと、冒頭からターは西洋のクラシック音楽に対する純粋な情熱は喪っていたのではないか? と思うのだ。
たしかに、マーラーの交響曲第五番のライブ録音をしたい、という目標はある。なんども音楽会のお偉いさん方と会食を重ねる機会を持ち、ご機嫌伺いまでして。また、自分の娘の名を冠する曲を作りたい、という願望はある。
故・マーラーが指揮者兼作曲家として活動したように。
しかし、スコアはずっと書けないまま。あげく、未完成のスコアを見られた若いチェリストから「ここの音、半音上げた方がいいんじゃない?」なんてアドバイスまで受けてしまう。

そう、リディア・ターの人生は偉大な音楽家をなぞるようにしか存在していないのだ。彼女の人生は、指揮者としてのアイデンティティにのみ、しがみついている状態だ。

ターについて、横暴な権力者であるとの見方があるが、彼女のポジションで権力を思う存分ふるうのは難しい。
たとえば、高齢の権力者らと会食をする際、彼女はまるで従順な子犬のように振る舞う。女性である、という外見と立場を十分発揮して、権力者に「私は天衣無縫な天才肌だけど、そんな私はあなたのことを尊重していますよ、なぜなら男性であるあなたは魅力的だから」とでも言うように。高齢男性の築き上げた権威に遜るその姿は、まさに父の娘、である。
(ここら辺は、河瀬直美を連想した私。)

自宅に帰れば、自分の所属楽団のコンサートマスターである女性シャロンが、パートナーとして待っている。
本作を語るにあたり、はっきり言っておきたいのは、コンマスより指揮者の方が身分が高いわけではない、ということ。
本作の感想で「ターはコンマスを指名する権力を持っていて…」と書いている人があるが、実はコンマスの権力はオーケストラの中でとてつもなく高い。演奏においては、指揮者の意志が最優先されるが、実務面においては、コンマスが優位である。
指揮者のターが、大学の名物教授だとしたら、コンマスって学部長とか学長みたいなもの。コンマスは、オーケストラ団員の総意の象徴みたいな存在なので、実はコンマスに認められないと、客員指揮者なんて指揮台に立つことさえできない。ベルリンフィルなどの、歴史と権威のあるオーケストラならなおさら。むしろ、ターを常任指揮者としてオーケストラに留めているのは、公私混同しているパートナーのコンマス、シャロンだろう。

では、そんなコンマス、シャロンとターが愛し合っている子持ちの同性夫婦かというと、そうでもない。
狭心症のシャロンの薬をターはこっそり盗み、自分で使用し、シャロンが薬が無くて発作で苦しいというと、しれっと嘘をついてたった今薬を見つけたふりをするのだ。自分が勝手に所持してたのに。
一般的な夫婦の場合、もし相手の薬が自分に必要となって持ち出した場合「必要なのでもらったよ」と、一言告げないか? ターはSNSに依存した生活を送っているわけだし、いくら時間がなくても、20文字程度をメッセに残すことはできるはず。というか、経済力がある夫婦なのだし、持ち出した直後、アマゾンプライムでザナックス的な薬はさくっと買えば、二日以内には宅配されるのでは?
これはターの故意的な嫌がらせではないだろうか。
シャロンが苦しんでいること、そしてその苦しみを救うのが自分であることに、ターは酔っているのだ。そういう酔い方をしないと、オーケストラで絶対的な権力を握るシャロンを愛せないから。
もっとわかりやすく言うと、ターはシャロンにマウントを取りたいのである。極めて自然に、優しさを伴っているフリをしながら。
こうしないと権力者であるシャロンが、ターにとって脅威になってしまうのだ。また、シャロンもそれに薄々気が付いていて、一歩下がって歩く妻を演じている。ここら辺は、同性夫婦であるという設定が機能しており、ター夫妻の子どもが学校でいじめに遭うなど、普通の夫婦よりは孤独な夫婦で、二人ともプライドが異常に高いから、誰かにアドバイスなど求めるようなことはせず(現実社会ではもっとフランクで親しみやすく、社会に溶け込んだ同性カップルが多くいるのを付け加えておく)、理想の家族を演じきるしかない。
二人は完全な共依存関係である。

ターは、付き人のフランチェスカとも力関係で結ばれている。
この関係、私は日本国内の、映画界でも演劇界でも音楽界でも文芸界でも、よくあることだと思った。
以前ある超大物俳優のドキュメンタリー番組が放送されていた際、とても若い女性がその俳優の”身の回りのお世話”をしていた。俳優は台詞を言いながら舞台に立つ体力があるのに? なぜ若い女性だったのだろう。ほんとに力仕事が必要であれば、男性の方がふさわしい役割なのに…。
ターは同性愛者であるから、フランチェスカという若い女を選んだわけだけど、ターが異性愛者であった場合、若い男性であってもおかしくはない。河瀬直美がそうであったように。ただ、どういうわけか”文科系”の付き人って、女性が多いのが現状だ…。よく見る、ほんとによく見る。肉体関係のあるなしに関係なく、社会的に全てを公開できない主従関係が成立しているが故に、自分のポジションが危うくなりかけたとたん、暗い目を鋭くしてお互いに束縛しあう人たち。冒頭で、ターに若い女が話しかけた時の、フランチェスカのあの目。
自分は付き人という存在を持つことが許された立場の人間である、と社会に認識をさせる人々。

ターは様々な人に関わり、支えられている。
否。
支えられているのではなく、彼女の存在や音楽への愛は、アイドル=偶像として周囲の人から作られ、消費されている。
ターは偶像である、という存在に縛り付けられているのだ。仕事場ではリーダーとして加害者らしさを出し、家庭では対等な関係を維持するために被害者にならないように努力している。どちらの世界にも、ターの自我はない。自分の足だけで立つことは認められていないのだから。
彼女の世界では、誰かが彼女を支えることを強要している。ターの傍で、ターを盾として利用しながら、その後ろで甘い蜜を吸うために。

たしかにジュリアードでのターの尊大な態度は、褒められたものではないだろう。教職に就くものの言動ではない。八つ当たりでもあるわけだし。
しかし、ターが加害者として実際に手を出しているのは、自殺した女性と、フランチェスカを含む愛人たちである。
オーケストラの団員に加害を加えているシーンは、見当たらない。
なぜなら、音楽の現場の権威は、彼女より巨大な権力で彼女を押さえつける。その場でのターは、加害者ではなく、被害者なのだ。

ハラスメントを行える立場であるが、ぎりぎりのユーモアで回避している賢い自分、というのを社会に表出することで自分の権威を保障している、とターは考えているのだ。
自分は加害を行える立場でありながら、暴力などの加害は行わない、統治者として君臨するしかないから。
ターが被害者にならないためには加害者になるしかない。
権威の前で、人は加害者になるか、被害者になるか選ばなくてはならない。
どちらにも所属しない、という立場は存在を許されない。
どちらかを選ぶことで、ポジションが与えられる。

ここに自由の使者として、若い駆け出しのチェリスト、オルガが登場する。
Z世代を象徴するかのようなオルガの自由奔放な振る舞いは、ターに音楽への情熱を再燃させる。
が、SNSの情報文化を早い年齢で吸収してきたオルガは、軽やかにターの周囲を渦巻くしがらみをすり抜ける。
ターの隣に身を置きながらも、超速でスマホをいじり(おそらくSNSかなにかだろう)、講演会に行っても付き人として忖度を重んじる働きは一切しない。そして、それこそが自分である、というようにターに見せつける。
ターは自身の音楽家としての希望を叶えているような理想の姿をオルガに見出して傾倒していくが、オルガはバリアを張っており、ターに送迎をしてもらい下車する場は、わざと自分の自宅や練習場所などではなく、人がいない場所なのだ。
権力構造を理解しているオルガは知っている。
ターが危険な人物であることを。かなりしんどい世界で生きている”おばさん”としてしかターを見ていない。
権力にしがみつくターに利用価値こそ見出しているが、音楽家として一人の人間として、尊敬はしていないのだ。
ターの横で高速でスマホをいじる指先では「今結構有名な人と一緒にいるけど、私のこと気に入ってて超ウケる。やば!」位の言葉が生まれていたのではなかろうか?
オルガもまた、不特定多数の総意として加害者として君臨できる立場を選べることを、卑屈に楽しんでいるのだ。

ターは、自分が自由になるために、自由な存在である誰かに関わりを求めて生きている。
ターに愛人が多い原因は、純粋な愛情だけでなく、自由と解放を求めた結果だろう。
だからこそ、のちにフィリピンの売春現場にて、肉体で結ばれた主従関係のグロテスクな束縛を目撃して、自分の身を振り返って嘔吐するのだ。
新しい愛を見つける度に入れ込んで、理想を叶えてくれない存在や、意識を解放してくれない存在であることがわかると、捨てる。
ターが旅客機内で疲れたようにスマホで何かを入力しているようなシーンがあるが、多分あれはフランチェスカでもシャロンでもない、他の人物だろう。

幻聴と幻想は、ターの日常に静かに忍び寄り、侵食してゆく。
私自身メニエール病を患っているので、なんとなくターの音に神経質な姿はメニエールとして理解できるのだが、ターの場合、文字をアナグラムとして紐解いたり、自分が捨てた恋人を夢で見たりなど、明らかに精神異常である。
不快な音はターの生活空間のそこここで流れる。
まるで危機を知らせるアラームのように。
夢うつつでターは幻想を見るようになるのだが、そのはっきりしない世界の中で、ター自身は隣の女と笑っている。
その隣にいる女は、シャロンでもフランチェスカでもオルガですらない。
幻想から目覚めた時こそ脅威を感じるが、夢の中のターはしどけない顔でくつろいでおり、いつになく自由だ。
西洋音楽と、西洋文化の権威の中で踊らされているより、アマゾンにいた時のターの方が、より本来の自分として安定していたのかもしれない。

しかし現実世界では、SNSを触媒として、ターに崩壊の狼煙があがる。
SNS上で、ターのレッスン動画の特に最悪な言語だけが切り貼りされ、不適切な関係であった人物と、どこまでが事実だか噂だかわからないハラスメントの情報が流れるのだ。
これがキャンセル・カルチャーであるかどうかは微妙なところだ。
実際にターは、横暴な指揮者であり、内容には不明点が多いものの性的な関係をもった相手に対して立場を利用したハラスメントを行っていたのは確実なのだから。
全てにおいて正しい人なんていないのだろうが、ジュリアードでの態度や、自分の仕事上でのキャリアと接点をもつ人物と愛人関係を築き、束縛したり切り離したりしている行き過ぎた権力者ターについて、非難の声が上がるのは必然だっただろう。
ターの悪行が露見したことは、ター自身が行動を振り返り成長のためにも、本来であれば悪いことではない。
しかし、SNS上でのターに対する報復を、楽団を運営する人々は何が事実でどこがでっちあげなのか確かめもせず、鵜呑みにする。
彼らの態度は、まさに”臭い物に蓋”というやつだ。
権威はクリーンでなければならず、自分たちが野放しにしたことで起きた行為に関して、無責任を決め込む。
ターは普段からSNSを”ロボット”と言い、見下している。
自分が観察される立場として実存することを、内心恐れているのだ。
そんな”ロボット”に、ター自身が激しいアタックをかけられる。
力の無い人々にとって、SNSは声を上げるツールだ。
しかし、力のある人や劣等感からくる鬱憤をはらしたい、歪んだ欲望を持った利用者たちがそんな小さな声を増長して原型とは違う形の巨大なロボットとして作り上げ、ターを打ち負かす。
SNSは、権力者が偶像の首をすげかえる時に、便利なロボットとして作用するようになってしまっている。

権力を作り上げ、支えているのが民衆であるわけで、権力は実体として目に見えるものであるのに、SNSにより茶化しのコロッセオと化し、権力の過失の大元の情報は拡散されて、真実が薄められてゆく。実は誰も真実を知ろうとはしないからだ。ブルーライトの上で踊るテキストには、表現の自由の名の下に、責任は発生しない。デマも正しいことも、全てが流れゆく。そうした現場では自分たちとは関係のないもの、として無視を決め込みやすく、虚像と被害者が数多く埋まる。
本作では、SNSは権力を下支えする役割を担っていることへの警鐘もならしている。
逆にターの見る幻は、強い体感を残す。
ターが休まる場所は、SNSから離れた幻にしか存在しない。

トッド・フィールド監督は、未完成な心と制御しきれない欲望を持ったストレンジャーとして存在する”普通”の人が、公正世界仮説を信じたい人々の薄汚い悪意に振り回される状況を描くのを得意としている。
前作までは主人公たちの住む町を社会として描いていたが、今回は、SNSの現場に移している。
今までのトッド・フィールド作品では、異質な存在として描かれる主人公らが、様々な出来事を通して、いびつで悲惨な世界を受け入れていく様を描いたが、今回の主人公は、西洋音楽という古巣の社会の現場には戻らない。

西洋音楽からアンチと揶揄される現場で、音楽という怪物を、彼女の嫌う”ロボット”を駆使しながら、ハンティングを始めるのだ。
そこで、彼女は本来の自我を取り戻せるのだろうか?
ロボットの世界を真摯に体現した人々と、広大な三次元の世界が彼女を迎える。

本作は監督以外はアメリカ国籍以外のスタッフを使うことが制作の条件だったそうで、欧州のスタッフが多い。
それが、トッド・フィールド作品に新たな息吹を吹き込んだ。
今までであれば、はっきりした照明をナチュラルに使うことが多かったが、本作では欧州のもやっとした空気と不気味さを、抑え気味の照明でよく表現している。
また、ターを追いかけるような、ドキュメンタリー風のカメラアングルもとてもおもしろい。
今までのトッド作品では、イマジナリーラインを上手に使いカットも多めという、いわゆるアメリカ映画的な撮影方法だったが、今回はワンシーンが長いし、引きのアングルが多い。
観客が、ター本人になるのではなく、ターを観察するものとしての権利を与えられているような撮り方だ。
また、引きが多いことと、ぬるっと長いシーンを多用することで、ヒッチコック的なクラシックなホラー映画ぽい演出を自然に作中に生かすことに成功している。
予算やセットなど、色々アメリカと欧州での違いがあるのだろうけど、今回の映画は欧州だからこそ撮れた、と言える仕上がりだ。
アメリカ映画の輪郭が際立ったキャラクター造形と、欧州の抒情性と人の垣根をなくす自然主義的な撮影技法が絶妙なバランスでマッチしている。
トッド・フィールド作品は、強烈な見ごたえとなんとも言えない後味を残し、ケイト・ブランシェットが言うように”ジャンル分けしにくい”作品で、スポンサーなど製作サイドが付きにくい。
トッド・フィールド監督、今までの制作経緯が困難すぎて「本作が最後」などと口走ってしまったそうだけど、思い直して次回作を撮る情熱が戻ってきているとか…!
今作であたらなる地平を開拓したわけだし、ぜひとも次回作を期待したい。


by &Riyo Narratify Co., Ltd.













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