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長距離走者の孤独

大迫俊選手の 最後のレースを見た。

 大して興味も無かった男子マラソン。リアルタイムで見ていた訳ではなく、トップ集団がゴールをした後、テレビを消してしまったので、ゴール前のレースだけを録画で見た。大迫選手がメダルを逃してしまった、と結果を聞いていたので、レース録画の編集されたものを再度見たのだが、大迫さんのラストスパートと、その後のインタビューを見た時に、心を動かされた。

 ゴール後、こんなに清々しくインタビューを受けている大迫選手を見たのは、初めてのような気がした。

 いつもは、日本新記録を出しても、マラソンレースで優勝しても、どこか満たされない、反骨心が、言葉や表情から伺えた。きっと、この人は、どこまでいっても自分に満足しないランナーなのだろう。どこまでも、「孤高のランナー」であり、「孤独」を感じさせる選手だったように思う。

 自分の才能を信じて、周りに流されること無く、我が道を行く。「何も、そこまでしなくても・・・」と周りに思われても、ストイックに、自分を追い込んでいく。そんなスタイルを貫いてきた大迫選手。札幌でのレース後に「これからは、誰かのために自分の力を使っていきたい。」とまっすぐに語っていた言葉と表情は、今までとは違っていた。

 そのレースとインタビューの一部始終を聞きながら、私は一冊の本を思い出した。

 中学生の時に読んだ、『長距離走者の孤独』という本だ。

 イギリスの作家 アラン・シリトーが書いた短編で、映画にもなっている。

 1973年に初版が出版されており、私が読んだのは、ちょうど1984年頃だったと思う。その当時好きだったミュージシャンの曲名にもなっていて、音楽少女だった私は、興味をそそられて読んだ記憶がある。

 非行少年スミスが、走る才能を感化院の先生に認められ、クロスカントリーの競技会に出場する。

 ぶっちぎりでゴールするかと思いきや、ゴールの前で突然走るのをやめ、あえて期待にそぐわない結果を自分で招く。

 読んだ当時は、何とも理解しがたいラストに、モヤモヤとしてしまった記憶がある。表題作以外にも、7作の短編が収められているが、今でも覚えているのは、この表題作だった。

 「ゴールをしても、本当にゴールしていたわけじゃない。」

 周囲の期待や、「こうあるべき」と考える選手像に、反撥し、アナーキックな憤りに突き動かされながら、大迫選手は、走り続けていたのではないか。自分自身に誠実であり続けたからこそ、自分に正直に、厳しく、ランナーとしての道を極めようとしてきたのではないだろうか。

 それは、若さ故に、アナーキックな憤りを行動に表せるのだとも言えるけれど、一つの道を究めようとする時、そのエネルギーも必要なのではないかとも思うのだ。

 青年期が終わるとき、私たちの心の中の不良少年のスミスは、自らの意志で、ゴールテープを切ってしまうのかもしれない。

 その時に、大迫選手のように、やりきった清々しい笑顔で、ゴールテープを切ることが出来ただろうか。

 遥か昔に、いつゴールテープを切ったのかもわからないまま、青年期をやり過ごしてしまった私は、大迫選手の姿に、スミス少年の未来を重ね合わせていたのかもしれない。


 30年ぶりに、また、読んでみようか。

 今度は、どんな読み方が出来るだろう。

 そして、孤独な長距離走者だった大迫傑という人が、次のステージをどんな風に駆け抜けていくのかを、見届けていきたいと思うのだ。


 


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