詩は救い
世の中、胡散臭い言葉ばかりで充満している。
いずれマスクをしなくともよい時期が戻ってくるのかもしれないが、
胡散臭い言葉はますます跳梁跋扈しているだろうから、
その悪臭をどう防ぐかは、これからも大きな課題になるだろう。
ユニクロで「感動パンツ」という商品を見たときに、
真面目な文章の中で「感動」という言葉はもう使えないと思った。
ドンキの店内放送で「情熱、情熱、情熱価格」という歌を耳にしたときに、
「情熱」という言葉から少し距離を置かなければ、と思った。
「安心、安全」という言葉がなぜ胡散臭くなってしまったかというと、
為政者の口から常套句のように繰り返されるその言葉が、あまりに内容空疎であることに、多くの人が気づいてしまったからだろう。
言葉は時代と共に刻々と響きも意味も変わる。
かつて輝いていた言葉も、あちこちで変な使われ方をされ、インフレを起こしてしまったら、その言葉の価値は下がってしまう。
そういうセンシティブさは、言葉で仕事をするなら、常に必要だと思う。
言葉には、節約という考え方は大切で、できるだけ無駄を省き、
必要最小限の使い方をしたほうが、結果としてよく伝わる。
あふれるような思いがあってこその、過剰な雄弁も時にはいいけれど。
ダイヤモンドのように扱えば、言葉はそのように輝くし、
排泄物のように投げ捨てれば、言葉はそのように悪臭を放つ。
これは、演奏される音についても同じである。
ネット上を流れてくる言葉の軽薄さと悪臭に耐えられなくなったとき、
詩の言葉に逃げ込みたくなる。
日常とは全く違う世界。
孤独で静かな空気をまとい、戸惑わせるような矛盾を豊かにはらみながら、
おまじないのように幻惑的に響く。
容易には理解できないが、稲妻のようにきらめいたり、
すとんと深いところで腑に落ちたりする。
そこで大切なことは、発語される、歌われる言葉が主観的すぎてはならず、
共感性と客観性の軽やかなバランスがあったほうがいいということ。
身体も声もピアノも、いい感じに脱力されていて、束縛されず自由に生きている人が備えている、「風」の感じがあること。
流麗過ぎないこと。
詩の空気はとてもいい。今のこの世の中、逃避できる場所のように、胸いっぱいにその言葉と音を吸い込みたくなる。
波多野睦美さんの歌、高橋悠治さんの作曲とピアノ、栃尾克樹さんのサックス、ゲストに「戯れ言の自由」の詩人・平田俊子さんが出演された「眠れない夜」を聴いて。※2021年7月8日、東京オペラシティ・リサイタルホールにて
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