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フォルテピアノの極意と「現代音楽」
どんなに忙しくとも、たとえ15分でも、健康のために散歩をする。
うちの近所には渓流のある散歩道があるので、そこを歩くと、つい水底をのぞき込む。
ピアノの音が心の中に聴こえてくる瞬間である。
飯野明日香さんのピアノ・リサイタルを5月22日(土)にサントリーホール・ブルーローズで聴いた。第1部は「エラールとの出会い」、第2部は「和の歌」という二部構成。詳しい演奏曲目はこちら。
サントリーホール自慢の1867年製エラールのフォルテピアノについては、平井千絵さんにご協力いただいたサライの記事をはじめ各所で私も熱心に紹介してきたし、アレクセイ・リュビモフとこのエラールを引き合わせたり、いろいろな形でかかわってきた。現代音楽とフォルテピアノの両方に強みを持つ飯野さんにも、ぜひここのエラールを弾いて欲しいと願っていた。
あっという間に飯野さんはそれは実現させてくれた。2019年の第1回に続いて今回はベルク、ベリオ、ミュライユ、新実徳英の新作(尺八:三橋貴風)をエラールで弾き、後半は通常のモダンピアノで日本の歌によるピアノ作品集「和の歌」(全曲委嘱新作世界初演)を弾いた。
フォルテピアノの、ときにノスタルジックで、まるでハープのように薄く半透明に、ときにはかなく、新鮮に響くのを聴いていて思い出したのは、世界的フォルテピアノ製作家のポール・マクナルティのことだった。
以前、ヴィヴィアナ・ソフロニツキーがすみだトリフォニーホールでフォルテピアノを3台弾き分けたとき、舞台袖に控えていたのがマクナルティだった。ここぞとばかりにマクナルティをつかまえて話しかけ、フォルテピアノを製作する極意は何なのかと聞いた。
「グラスハープだよ。ワイングラスに水を入れるときに波々と注いだらいい音はしないよね? 僕がフォルテピアノを作るときも、比喩的に言うと、水をいっぱいに満たさないようにやる。それが良く響かせるコツなんだ」
飯野さんのフォルテピアノも、音を潰さない。アタックの瞬間よりも、いかに音を残すか、漂わせるかを考えていると思った。特にベリオとミュライユは、まるでスクリャービンのように心地よく官能的だった。調律はどんな風にしていたのだろうか。
ある古楽演奏家は、現代音楽に古楽器を使うなどナンセンスだと言っていたが、果たしてそうだろうか? 飯野さんの試みは、フォルテピアノであえて現代作品を弾くことで、ピアノという鍵盤楽器の響きのあり方を、ラディカルに問い直す契機としているように思う。
前半にフォルテピアノがあったからこそ、後半のモダンピアノ(舞台隅に移動したエラールが小さくなっていたのがなんだか可哀そうで、ついチェックし忘れたが、たぶんスタインウェイ)は、爆発的なエネルギー、明瞭さ、重さ、音圧、ダイナミズム、一台でオーケストラに匹敵する圧倒するスケールにおいて、これは完璧な「メカニズム」なのだと改めて感じた。
完璧なものを前にすると、人間はそこから逸脱したくなる。だからこそケージはプリペアド・ピアノを使ったし、20世紀後半に多くの作曲家たちが内部奏法を使ったし、いまフォルテピアノが見直されているのだろう。
モダンピアノを弾くときの飯野さんは、響きをシンフォニックにたっぷりと豊かに響かせた後で、あまり長く余韻を引きずりすぎずに、パッと切り上げる瞬間がいくつかあった。その切れ上がる潔い感じも良かった。
もちろん、最も印象的だったのは、既成の価値だけではなく、未知の生まれてきたばかりの作品の価値に対する、強い信頼だった。どの曲も、また生で聴いてみたいと思った。
演奏家とは、いま生きている作曲家たちに力を与える存在でなくてはならない。それを実行している演奏家はいまどんどん増えている。