子どもの障がいが親の価値観を変える
僕には子どもが2人います。
1人は広汎性発達障がいを持ち、もう1人は健常な子どもです。
2人の子どもを育ててみて思うのは、健常な子どもには手がかからないということです。
もちろん障がいの有無に関わらず、育児にはいろいろな問題がつきものです。
しかし、健常な子が手取り足取り教えなくても自然にできることが増える様に、僕はとても驚かされました。
同時に障がいがあるということは、親にとってそれ相応の手間がかかることを再認識する機会になったのです。
ただ、健常な子と障がいを持つ子の育児を比べてみると、障がいを持つ子のことを考えるときだけに生じる親の価値観の変化があることに気がつきました。
ほとんどの親は「子どもに幸せになってほしい」と考えているのだと思います。
しかし、大人になっても自分の力だけで生きていくことが難しい子どもに対して「幸せな生活」の画を思い描こうとすると、いくつかの困難があります。
経済面で言えば、仕事をして経済的に豊かになることは、難しいかもしれません。
障がい者就労の賃金は、一般的な企業に比べで金額が低く、昇給することもほとんどないからです。
お金を使って贅沢をしたり、楽しい体験を得るような「幸せ」は手に入りにくいことなのではないでしょうか。
社会的側面で言えば、障がいを持つ子どもが大人になり、社会的成功を収めることは難しいかもしれません。
健常な子であれば成人後も自身で目標を考え、達成するために努力し、達成した満足感を持って「幸せな状態」にたどり着くことができます。
しかし、障がいがある子どもの能力にはギフテッドと呼ばれる一部の子を除くと、能力開発に限界があります。
何かの目標に向かって努力し、能力を向上させることはできるかもしれませんが、社会的な成功を収めたり、承認欲求を満たせるような目標を達成することは難しいように感じます。
つまり、経済的に豊かになったり、目標を達成するといった、一般的な価値観で見た「幸せ」は手の届きにくいところあるのです。
そこで考えなければならないのは、障がいを持つ子どもがお金や社会的成功なしに、どのような価値観を持って生活すれば「幸せな生活」にたどり着くのかということです。
そして、このテーマについて検討することは、親自身の今後の生活を考えていく上でも重要になります。
このテーマが、親と子双方の生活に底通しているからです。
多くの人が育児が終われば定年を見据えた年齢になります。
その頃には病に倒れる人が出てきたり、社会の中での自身のポジションが決まってしまい、社会人としての限界も見えてくるでしょう。
社会人としての限界が見え、経済的ゆとりもなくなっていく中、日々の生活にどのような価値を見出すのか、ということに、いつかは向き合わないといけません。
この部分で、障がいを持つ子どもの幸せな生活を考えることと、親自身の今後の生活を考えていることの根底が通じているのです。
障がいの有無に関わらず、歳を重ねるごとに、お金が必要な贅沢や目標を達成したりすることは難しくなるのが自然です。
そうなったとき、何も持っていない素のままの自分はどういう価値観を持って生活をしていけばいいのか。
お金や体力、社会的成功を削ぎ落とした後に残る、幸せの本質とは何なのか。
その問いの答えが、障がいを持つ子どもの幸せに対する答えでもあり、私たち親にとっての答えでもあると思うのです。
障がいを持つ子どものことを考えることは、この本質的なテーマに早くから取り組むことにつながります。
そうすると、日々の生活に対する価値観は大きく変わることになるでしょう。
僕自身、子どもの将来の生活から自分の今後の生活を考えるようになり、人とのつながりや、家族と過ごす時間、1人で本を読んだり、木や花を眺めたりすることに対する価値観が大きく変わりました。
大切なのは、贅沢な体験や努力による達成感ではなく、自身の「ありよう」であり、より良い状態にいることだと気づいたからです。
どのような状況であっても、自分自身の「ありよう」だけを意識して生活することが、個人的なウェルビーイングに近づくことができる道筋なのだと、いまは考えています。
そして子どもの幸せについても、ほぼ同じように考えています。
もちろん、子どもの価値観が変われば、変化するところではあるのですが。
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