人生は残酷であるが、かくも甘美である。池田晶子『残酷人生論』
人は死んだらどうなるのか、ということについては、誰でも人生で一度や二度は考えたことがあると思う。そしてそれに対する最も一般的な答えはおそらくこういいう風になるだろうか。
『人は死んだら無になる。なにもなし。人生は一回きり。死んだらそれっきり』だと。
でもちょっと考えてみてほしい。
では何故『今、ここに在る』のだろうか。
自分が死んだあとは『無』になるのはいい。しかし自分が生まれる前というのもやはり『無』の世界なのである。自分がいない世界が『無』というのなら、自分が死んだあとも生まれる前も等しく『無』なのである。
しかし我々は『今、ここに在る』のである。『在って』しまっているのである。世界は『無』ではなかったのか。『ゼロ』ではなかったのか。『無』から『有』への変換はどのように行われるのだろうか。そしてその『変換』が行われたとして、それはたった一回きりのことなのだろうか。
よろしい、ではこの人生が『今回、たった一回きり』だとしよう。だとしたら、何故この時空なのだろうか。自分はもっと前に生まれても良かったし、もっと後の時代でも良かったはずだ。もしくはこの地球という惑星じゃなくても良かったはずなのに、何故、この地球に、この二十世紀に、このタイミングで存在することになったのだろうか。
この、何もない『無』から『今、ここに在る自分』が『今、この時点で』生み出されるシステムというのは一体どういうことなのだろうか。ここには何か恣意的な力が働いているとでもいうのだろうか。
などということをつらつらと考えるきっかけになった本が、この、池田晶子の『残酷人生論』という本である。
20数年前、ふと立ち寄った書店で、何気なくこの本を手に取って1、2ページ読んだところで体中に戦慄が走り、そのままレジに直行してしまった。
とにかく、初めて読んだ時の、全身が痺れるような興奮は今でも忘れることが出来ない。ページをめくるたびに痛烈なパンチが飛んでくる。もう後戻りは出来なかった。特に『魂』の章が好きで、ここばかり何度も読んだのを覚えている。
今回、久々にこの本を読み返してみたのだが、やはり今でも充分刺激的である。まずは目次を眺めてみて欲しい。『私とは何か』『死はどこにあるのか』『死を信じるな』など、魅惑的な見出しの数々は、クラクラと眩暈がしそうなほど眩しい。
あと、社会や国家、現実の危うさなどを論じた『自由』や『情報』の項目は、今、この時代においてこそ読まれるべきだと感じた。真の『グローバルな自己革命』はこの本に全て書かれてある。
池田晶子の著作は当時片っ端からほとんど読んだのだが、やはり最初に読んだこの本がベストだ。読みやすく平易なのに深い。ここには池田哲学のエッセンスがギュッと凝縮されている。新しい改訂版もいいが、やはりオリジナルのこの並びが素晴らしい。
池田晶子という哲学者は『私が私である神秘』や『存在することの謎』『死とは何か』について突き詰めて考え、懊悩し、戦い続けてきた人である。しかし彼女はこうも言っているのだ。死や生や存在について考えをめぐらすこと、それは人生における最も甘美な愉しみのひとつである、と。
彼女は残念ながら2007年に亡くなってしまったのだが、その墓の墓碑銘にはこう記されているそうである。
『さて死んだのは誰なのか』
ひょっとしたら誰も死んでいないのかもしれない。
もし、この人生が一度きりでないならば。