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人のこととか興味なかった。でもどう思われてるのか知りたかった。
自己愛パーソナリティ障害というのを知っていますか。
自己愛性パーソナリティ障害
・人より優れていると信じている
・権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
・業績や才能を誇張する
・絶え間ない賛美と称賛を期待する
・自分は特別で、独特であると信じており、その信念に従って行動する
・人の感情や感覚を認識しそこなう
・人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
・人を利用する
・劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
・嫉妬されていると思い込む
・他人を嫉妬する
・多くの人間関係においてトラブルが見られる
・非現実的な目標を定める
・容易に傷つき、拒否されたと感じる
・脆く崩れやすい自尊心を抱えている
・感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
傲慢さを示し、優越性を誇示し、権力を求め続ける傾向がある。
彼らは称賛を強く求めるが、他方で他者に対する共感は欠けている。
これらの性質は、強力な劣等感および決して愛されないという感覚に対する防衛によるものではないかという説がある。
ぜんぶは当てはまらないし顕著ではないにせよ、わたしはこの傾向があったという自覚があります。
それは根底にある自信のなさ、自分は愛されるわけがない、だから認めてほしい、愛してほしい、賞賛してほしい、ちやほやしてほしい、みたいなカラカラに乾いた欠乏感から起こり
優越感と劣等感をシーソーゲームのようにどちらかに傾きながら、交互にあじわうような不安定の中に生きている。
特別だと思う、思いたいっていうのもすごくわかる。
だからすごいでしょ!褒めて褒めて!もっと褒めて!っていう気持ちだったのだと思う。それが自分では受け入れられないほど本当はべつにすごくなくて、現実とかけ離れていても。
愛情をもらえなくて、愛に渇望してても発症するけど、過保護に育てられて過剰にすごいね!えらいね!天才だね!って言われて育った人も、誇張した自己評価をするようになるそうだ。もはやこれって、もう「愛の病」なんだなって思う。
愛が足りないのか、ありすぎるのか、条件付きの愛なのか。
そのどれをあてがわれても、愛の病は発症してしまう。
まんまるな、なにも欠けてない愛を与えることができるだろうか。愛を与える方も、きっとまんまるな愛を受け取ったことがある人でないとだめなのじゃないだろうか。
自己愛パーソナリティの「自己愛」は、
「自尊心」とはちがう。
よくても悪くても、ありのままの等身大を認められるのが、自尊心。
自己愛は、その反対。
自信がないから大きく見せる。
自信がないから否定されたら消えたくなる。
自信過剰で、自分にしか興味がなくて、素晴らしい自分は認められるけどなんにも価値がない自分のときは死にたくなる。
まんなかがなくて、ありのままの自分のことを、ほんとうは自分でも知らない。
上手くやれてるかどうか、称賛されるような自分でいられてるかどうか気になって、矢印がつねに自分に向いているから、他者のことなんて見てる余裕がないし、いつも自分が自分が自分がになる。他人に興味ない。自分にしか興味ない。自分の話ばっかりする。もっと見てよ!褒め称えてよ!と。
他人のことに興味がないのに、他人にどう思われるかを気にしすぎて、他人の評価に依存している。他人を通してしか自分を好きになれない。
最近ではSNSが主流になり、過度に承認欲求をかきたてるために、だれでも自己愛パーソナリティ障害になりやすい土台ができあがっているという説がある。でもそれはあくまでそうなりやすいという環境の話。
おもに大半を占めているのは、とくに両親とのかかわり。
わたしはけっこう冷淡かもしれない。
感情的かもしれない。
傲慢かもしれない。
人を傷つけたかもしれない。
自分にしか興味がないかもしれない。
見下すか、見下されるかの戦いの中にいたかもしれない。
嫉妬するか、されるかの戦いにいたかもしれない。
嫌われたし、煙たがられたかもしれない。
それを認めるのはとても怖い。
でも、少なからずきっとそうだ。
パーソナリティ障害には、ほかにもいくつも種類があり、それぞれべつのゆがんだ性質を持っている。
統合失調型パーソナリティ障害
シゾイドパーソナリティ障害
妄想性パーソナリティ障害
依存性パーソナリティ障害
強迫性パーソナリティ障害
回避性パーソナリティ障害
演技性パーソナリティ障害
昨今、ADHDやASDなどいろんな名称にくくって、たんなる個性をなんでも病気にする風潮もどうかと思うけど
部分的になら誰にでもその要素はあるかもしれないし、傾向として知っておいたら役に立つことはあるかもしれない。
自分の生きづらさの中心に、何があるのか見つかるかもしれない。
画一的なカテゴライズでも、いろんな角度から削っていったらどこかではっきりした輪郭が見えてくるみたいに。
それがすべてじゃない。
あくまで鵜呑みにせずにただの傾向でも、
あ、そうなってたのね。だからなのね。と、認めて受け入れたら何かが変わる。
それは自尊心がズタズタになるかもしれないし、認めることに時間がかかることだけど、きっとだれかを無自覚に傷つけずに済む。
知らなくて、無意識に生きていたときよりも。
わたしの家族や身の回りにも、パーソナリティ障害だったと思われる人がけっこうたくさん思い当たり、形はちがえどおなじような欠乏感の中で、愛を削りあってきたんだなと思った。
みんな少なからず、いびつに凹んでしまった愛をかかえながら、傷つかないように自分を守るために、やむなく誰かを傷つけながら生きているのかもしれないと思った。
それが悪いとか、悪くないとかじゃなくて。自分のこころが壊れないように、身を守るための手段だったのだ。
だから誰かをもしかしたら傷つけたかもしれない過去も、ときたま込み上げてくるかもしれない扱いにくい感情も、自分だけは受け入れて、嫌いにならずに一緒に歩いて欲しい。