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怒りの感情はどのように解放されるのか

腹の立つことがあった。

憤りが込み上げるたびに、気がついて、
「怒り」を見てみる。
その怒りが、身体のどこに現れているのかを感じてみる。

私の思考は まるで小さな隙間を見つけた濁流のように勢いよく、猛威をふるう。
憤りという感情に乗せて ありもしない、けれどさもありそうなストーリーを私に信じ込ませようとする。様々なシナリオが次々に創られる。

憤りが連れてくるストーリーが 真実味を帯びて私の周りを雲のように覆うたびに、
それは「本当なのか」と、自分に問うてみる。
「意識的」でないと、すぐにそれらのストーリーに飲み込まれてしまう。

けれど、こういった「怒り」のストーリーの根底にあるのはいつも自分を「被害者」に仕立てあげてしまうパターンが私にあることは、承知していた。

不快な感情の対処の仕方を、多くの場合、私たちは教わっていない。

感情を抑え込むか、もしくは衝動的に感情を顕わに出すことが、それなのだと私は長い間、勘違いしていた。

いったん感情が現れてくると、その理由を解説しようとして、思考はシナリオを組み立てそれを素早く、そして必死に語り出す。
そのストーリーにすっかり私たちは酔わされて、「無意識」に入る。

そのとたん、私たちに生じた苦悩の感情は、私たちの身体に閉じ込められてしまうのだ、と私はこの本から教わった。


ナチュラルスピリット/刊

たとえ起こったことに関するストーリーがとても正当なものに聞こえたとしても、覚えておく重要なことは、そのストーリーこそが私たちを無意識にさせて、苦悩を身体の中に閉じ込めているということです。その代わりに必要なのは、さらなる考えを作り続けるのではなく、自分が感じていることを感じる能力を持つことです。

アジャシャンティ

憤りに気づき、
その感覚を感じる。
ストーリーを見抜き、
それを手放す。

そのプロセスが、永遠に続いて行くかもしれなかった日曜日、
私は友人に声をかけて、
遅い朝食を、近所のレストランへ食べに行った。

私たち4人はレストランのバーがあるエリアに座って、大画面に映るフットボールゲームを見ながら、
ミモサ(オレンジジュースとシャンペンのカクテル)で 乾杯した。
大好きな人たちと 笑い、たわいもない雑談をして 私はすっかりリラックスした。

私は こんなとき、
自分の憤りやストーリーやらを 誰かに話したりしないようにしている。

周りに語ることで、それらはもっと勢いづくのを知っているから。

それよりも、
私は この私という空間に現れてくるものを ただ眺めていること、
意識的であることに終始する。

批判せず、押しやることもせず。

そして、今、この瞬間が私に与えてくれるギフトに十分に浸る。
友人との時間、美味しい料理、
この豊かな国で暮らすことのできる恩恵。

その日は、家に戻ってから 少し読書をした後、 ソファに寝っ転がって、ネットフリックスで日本のドラマを見た。
全11話を、夜がふけるのも忘れて一気に見た。

翌朝、遅くに起きて庭で、風に吹かれながらコーヒーを飲む。

夕べ見たドラマが 料理をテーマにしていたからだろうか、
私は、私の感情が、
生(ナマ)の状態から、
焼かれたような気がした。

血生臭い、魚やら動物の肉やらの切り身が、
しっとりと焼かれて、じわりと旨みが溶け出している。
鮮やかな魚の切り身がオーブンの中で、引き締まり、透明な肉汁が溢れる映像が蘇った。

私はようやく自分の憤りと和解したような、
それに包まれるような、
目の前に広がる青空になった。

雲が通り過ぎたのだった。


物事が起こって、
感情が湧くように錯覚するけれど、
実は 感情があって、
そこに物事が惹きつけらているのだと、
こういうプロセスの後は しみじみと感じる。

物事は、身体に閉じ込められていた感情を 解き放すために起こってきただけと。

だから 誰も悪くないし、
誰のせいでもない。

「相手」 対 「自分」、という分離の構造から、「ひとつ」に戻るのは何という安心感だろう。

人のもともとの「恐れ」、「不安」はこの分離感がもとになっていると言われている。だから、私たちは「ワンネス」、や「繋がり」、という言葉に魅かれる。

怒りという感情が解き放たれれば、
ストンと、本当に「起こった」ことだけが見えてくる。
スッキリと。

そこにストーリーはついていない。

すると、自分の「憤り」からではない、
フラットな状態からの行動が 自然に現れてくる。

私はそれを信頼している。




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