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人生の寄り道、廻り道もいいものだ。

無性に外で一杯飲みたくなるときがあります。

一杯といっても、わたしの場合はカフェにちょこっと立ち寄るほう。

コーヒーでもティーでも。
もちろん、家で淹れられます。
器具も豆も茶葉だってそこそこ取り揃えてます。

それでも、暮らしのまんなかにある自分の家から、あえて離れて飲むティータイムが、ちょっとした非日常を演出してくれる。

そんなひとときを味わいたくなるのです。


主婦の外カフェは贅沢?

以前、この話を人に話したら

とてもじゃないけど
そんな時間的な余裕もなかったし
思いつきもしなかった、と。

うらやましいわ、と言われましたが
わたしは子育てや家庭に
献身的になれる彼女がうらやましく思いました。


わたしがカフェでルポ(休息)を取るのは
あたらしい風を暮らしに吹き込みたいから。

ふぅーーーっと深い呼吸をして心の窓を開け放ち、エネルギーの入れ替えをするのです。


見えるものより見えないものの方が饒舌

どんなに好きなことをしていても
ガッカリすることや、なにをぅ!!とか、しょんぼり...とか。感情の浮き沈みはありますよね。

数々のストレッサーに対して
どう自分が対処していくかで
日々のQOLが左右されると思ってます。

わたし自身でいうならば。

お母さんとして放つ気なりオーラが
ホワホワとあたたかくやわらかなもので包んであげられてるかな?とか。

家事や育児をするうえで自己犠牲という名の下
トゲトゲしたモノを知らず知らずに
放ってしまってないかしら、とか。

言葉や表情といった見えるもの以上に
見えない部分がじんわりと醸す
人の雰囲気やエネルギーは、あると信じてるので、やってることと本心とに微妙なズレがないかは日々のチェック項目でもあります。


それって本当に必要?

 わたしがいないとダメだから。
 夫に頼んでもうまくできないし。

息子が乳幼児の頃はワンオペ育児だったこともあり

「わたしがやらなきゃ!」

と、全ての家事や育児を囲い込んでしまいがちでした。

ですが、わたしがいないと息子が寝付けないのも
夫に家事を任せられないのも(本当はそれなりにできる人です)

先回りをして手を出しがちな自分

が自然とそういう結果を招いてしまっていたのです。

ここに気づけたときには
人に任せる、頼る、が
少しずつできるようになっていましたが

よかれ、と思って自分なりにしていたことがせっかくの愛情や優しさの光をイライラやカリカリで歪ませていただけでなく、そのとばっちりが本来なら大切にしたい子供や家族に向かってしまうという悲しい結末(泣)。


おうち仕事がしんどいよーと感じた時は頑張り過ぎてることが多いかもしれません。もし、あの頃の自分に声をかけてあげられるなら、本来の自分が差し出したかった「おおらかさ」たか「ほがらかさ」を思い出せるといいよ、と言ってあげたい。

でも、それもままならないので。このnoteを読んで「うんうん」って頷いてくれてる、どなたかに届いたらよいな。


手抜きしてるようでイヤだ

ちなみに、育児の場面において頑張ってしまいがちなのは、愛情や手塩にかけてる感が頑張るほどに比例するような感じがするからではないでしょうか。手抜きをしてる自分がものすごく後ろめたいのです。

では、他者から見てどんなふうに思われてるから後ろめたい、と感じるのか。

わたしの場合、「ダメな母親」ってレッテル貼られるのが1番イタかった。


「なんかダメな感じ」というのは自分が歩んできたこと、成してきたこと全てを否定されてるような気がしてしまいます。

ポイントは「気がする」というだけで、真実かどうかは別問題ということです。

なにせ、わたしも「あなた、母親失格ですよ!」などと誰からも言われたことがないですから(笑)。

みんな何かしらのネガティブなセルフイメージは持ってるモノですし、だからこそ頑張んなきゃ!と自らを奮い立たせることもできます。

ただ、その頑張りがダメな自分を抑え込むような形を取り始めると、

頑張らないと認めてもらえない

なループにはまり込んでしまうのです。

自己否定を抱えたまま自分が自分にOKサインを出してあげられるワケがないですし、心の仕組み的にもそのようにできています。

ですので、まずは

ないもの探しより、あるものを数える

をすることをおすすめします。

 いつもよりたくさん笑ったな。
 遠くの公園まで出かけられる元気があったな。
 今日の肉じゃがの味付けは最高だわ。などなど、

ほんと、そんな程度でいいんですよ。

できないことに横槍を入れるよりは、小さなことでもできたことを数えてみる、を習慣化していくことで、「できない私」から「まぁまぁな私」へと自己認識が変わっていきます。

そもそも、この世界に「絶対」ってありえないですし、「完璧さ」を求めたらどこまででも追求できてしまう。

どこまで追い求めても良いのだけど、それはあくまで自分が楽しめる範囲で。

あとはいい塩梅を今いる自分の場所で育んでいければよいですよね。わたしもそんなふうに自分を育ててる最中です。


料理も人生も塩加減が大事

お料理できる人は、人生へのスパイス使いだってできるはずなのです。

入れすぎたら、次に気をつけますものね。
作って、調整して。。あ、また入れすぎちゃった、とか(笑)。そんなことを繰り返しながら、日々が少しずつ美味しく味わい深くなっていく。

お料理も、スポーツも、読書も、語学習得も。
なんでもそうですが、試行錯誤の上で学べること、深められることが習得の姿勢でもあり。成長したり転んだりしながら歩める「経験」ができるってことがプライスレスなわけです。


わたしの場合は施術を学ぶというプロセスも、自己の肯定感を育む上で役に立っていたようです。

最初はこれでいいのだろうか?と不安にまみれてはもう少しこうすればよかった、とか、まだまだ技術も経験も十分じゃないなぁなどと自分にダメ出しすることも多かったのですが。

自分に厳しいのは悪いことではないにせよ、自己否定の強い人ほど自分にも厳しく、おまけに他者にまで厳しい目でジャッジしてしまう。やりすぎは注意です。なにせ自分も他者も疲弊してしまいますからね。


施術をする、が自分理解→他者理解へ

施術は施す側と施される側に分かれているようですが、実は同時に作り上げる一つのセッションのような関係の上に立っています。

わたしがよしとするものがそのまま伝わることもあれば、伝わらないこともある。

一方で、やり残したものがあったと思っていても、満足感を伴って相手に響くこともある。

もちろん、こちらが目一杯差し出したものでも、相手には too much ということだってあるし、相手側に受け取る準備が出来てないこともある。

施術者がいくら満足しようが、もがこうが。それはただの一人よがりにしか過ぎない、ということ。

ですので

その時々でできることを精一杯尽くしていこう

そう思えるようになってから、自分の心も身体もラクになったばかりか、クライアントさんの反応もよきものへと変化していきました。

悩みんでるときは沼が底なし過ぎて、このまま出られないんじゃないか?と思うことがあります。が、その沼ですら自分が作った沼で、そこに自らハマって助けてーと叫んでいただけだったのがわたしのケースです。どうぞ笑ってやってください(笑)。

でも、この道を通らないと掴めなかった真実があったことがわかると、そう仕向けてくれた諸々のことがありがたく思えてくるんですよね。

何が失敗で、何が成功なのかという概念すらなくなっていくようです。まるでペラっペラのうすい紙みたい。そんな紙も、裏があるからこそ表があるし、その両方で紙が成り立ってる。どっちが表で裏か、なんてのもその時々の気分や環境でいくらでも逆に早変わり!

あってないようなもの。でも、両方ないと両方とも存在できない。禅問答みたい。でも、やっぱりここに真実がある。


ゆっくり、味わい深いひとときを

気持ちがせきたてられるとき、ゆらぐとき。私が思い起こすフランスの諺があります。

Qui va doucement va loin.
ゆっくり行くものは遠くへ行く。

誰も自分のお尻を叩いてまで、前へ前へと無理強いさせて進ませようとするモノもヒトもいないのです。いるとしたら、やっぱりそれも自分です。

ほどほどに頑張る。ほどほどに休む。

ブレイクタイムは、時間にスキマを作るイミでもあります。自分への労りの気持ちもこめて。今日も味わい深いティータイムを過ごします。

(最近は外カフェが減って悲しい…)





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nao
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