軽石散文 - 『嘔吐』サルトル
我々は信じたくない。思い出とは、過去とは、経験とは、ただ、自分のなかに佇むだけで、その体積のわりに、現在に一切の知恵も利益も与えてないことを。それどころか、その思い出のせいで我々は怖気づき、行動は制限され、退化しているとさえいえる状態に陥っている。スピッツの草野さんだって言っている。「君が思い出になる前に、もう一度笑って見せて」と。
成長は退化だ。時間が経てば精神は朽ちる。自分を含めて、人類はどうもその事実を信じたくない。いろいろと都合が悪いのである。それ故に、過去の出来事が自分の身に生じた理由を試行錯誤し、それらが自分の人生に与えた利益を後づけし、意味があったと信じようと試みる。
わたしはときに顔の表面に、如何にも自然な笑みを浮かべながら他人の人生の物語を聞いたりする。その経験が自分に利益をもたらすかどうかは、すぐに判別が可能である。わたしは世界の表面で、勉強になりますという顔をして相槌を打っている。ひとりで随筆を読んでいたのであれば読み飛ばしてしまうページであったとしても、顔に微笑みを浮かべている。我々はそれを社会と呼ぶのだろう。こんな経験が成長だって?そんな馬鹿な。
そうこう考えているうちに、時は流れる。不変であるのは変化し続けることくらいで、必ず何かは起きる。そのとき、人間は予測したい。未来の方向を、もしなにか行動を起こすのであれば、その選択によって起こり得るリスクを。
だが皮肉なことに頭の何処かにストックされた、いままで聞いてきた誰かの人生の話がそういった予測に役立ったことなどは、一度たりともないのである。むしろそれらによって人は怖気づき、ブレーキがかかることさえある。
いつかは死ぬ。未来はそうと決まっている。それまでにどんな経験をしようとも、死は平等に訪れ、人体はいつか機能しなくなる。そして、誰からも忘れられ、自分を忘れたその誰かにだって死は必ず訪れる。わたしが他人と体温を分かち合ったかどうかなんて、世界にとってはどうでも良い。わたしがいてもいなくても夕日は綺麗で、戦争は起こる。
人生というのは思ったよりも平等なのだとだんだん分かってくる(気がする)。生まれる場所は選べず、人を傷つけても、傷つけられても、無責任に他人の背中を押しても、ときにはそのまま崖から人を突き落としても、はたまた、見殺しにしたとしても、どれだけ演技をしても、知性を磨きその知識をもとに嘘を固めた愛のようなものを見よう見真似で作ったとしても、これらの行動を一切しなくても、いつかは死ぬ。
たしかに今ではないかもしれないが、その喜びは必ず平等に訪れる。
我々は信じたくない、と書きながら、それを信じたくないのは紛れもないこの自分だと知っている。わたしは自分の、衝動的で破天荒な過去の数々の行動に、その生命に、理由をつけたいのである。人は情けない状況を嫌う。そう、惨めな気持ちを認めたくない自分を、わたしは認めたくないのだから。
【余談】
もう訳がわからない。だけど訳がわからなくても、まぁ良いか、と思って誰かに体を預けたのなら、我々はそれを、”信頼”とでも言うのかもしれないけれど…。
あろうことかこれは日記のつもりであった。