死刑【『監獄の誕生』ミシェル・フーコー】
甚だおぞましい話であるが、わたしが文学に溺れたきっかけは「監獄」と「死刑」である。
10代になったばかりの頃、『アンネの日記』を読み、そのあとにフランクルの『夜と霧』、収容所の魅力に溺れ、石黒謙吾の『シベリア抑留』、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を読んだ。
続いてユゴーの『死刑囚最後の日』ジュネの『花のノートルダム』に『薔薇の奇跡』。
ああ美しい。
前置きが長くなってしまったが、ついにフーコーの『監獄の誕生』を読了。
書評を書こうと思いつつ、奥が深すぎる内容と、情報量の多さもあり、しばらく書き出せずにいた。
とりあえず個人的に一番面白いなあと思った第二章『身体刑の華々しさ』をメインに印象的だった箇所を軽く紹介する。
死刑を含んだ処刑の歴史がもっとも奥深いのはヨーロッパ、とくにフランスだといえるだろう。いうまでもなく、文学界でも同様である。
身体刑とは、なんだろうか。
ジョークールによると、
すでに話は的をついている。
わたしたちは疫病の流行や戦争を恐れ、死を恐れる。だけどもそうした残酷な歴史を好んで若い世代に語り継ぎ、文学や映画にする。
" 説明しがたい" が、死は、面白いのだ。
著者のフーコーは20世紀の哲学者、作家であるが、本書では処刑が最も華々しかった17〜19世紀のフランスの社会情勢がよく研究されている。
当時の身体刑のなかでも、民衆の話題の中心にあったのはもちろん" 死刑" だった。
当時死刑は、最もドラマに満ちた現実世界の刑罰だったのである。
誰かの死刑が決まると、民衆は今か今かと待ち構え、今回はどこで行われるのかと噂した。
たとえばこんな号外がある。
または司法は公の場でこう言う。
開演の予告である。
民衆の参加が推奨され、仕事を休めない人のために、晒しの時間まで配慮してある。
そして舞台の幕が上がる。
死刑執行人が、晒し者の刑をスタートに鞭打ち、烙印、絞首刑、火刑、車責めの刑、四裂きなどを公の舞台上で披露する。
囚人は叫び、民衆はその光景を一目見ようと処刑台を取り囲み、予期せぬ出来事に期待する。
囚人が口を開く。
あるいはこう、
こういう誠実な囚人は、ときに人々の心を動かす。
そしてときには拍手喝采が、逆襲や復讐が、死刑囚や民衆の逆転勝利までもが、この舞台上では起こりうるのである。
ここには当時のフランスの" 死刑の美学" のようなものが見てとれる。
フーコーは本書で当時の「司法」の役割を、「一つの詩法」と表現した。
ここまででお察しの通り、当時のフランスの処刑
において、死刑執行人のほうは美しい演出のため、
が絶対的に必要だった。
ここで、サンソン一家の登場である。
サンソン一家については、日本語圏だと、坂本眞一がヤングジャンプで連載をした『イノサン』という漫画が大変分かりやすく、面白い。
当時のフランスでは、これら死刑の華々しさの演出に、" プロの演出家" つまり、" プロの死刑執行人" が必要だったのである。
サンソン一家は当時のフランスで200年以上、プロの死刑執行人を輩出してきた、" エリート一家" 。
信じがたいことに当時、死刑執行人は憧れの職業だったのだ。
フランスの作家で強盗犯のジャン・ジュネは、死刑執行人との恋愛を自身の作品に描き、また、一番愛する登場人物に死刑を課した。
彼にとっての" 死刑" はもっとも美しい、人生のゴール。彼自身が手に入れることのできなかった、永遠の憧れだったのである。
だが逆を突けば、死刑執行人にミスは許されない。
たとえば、18世紀、四裂きの刑に失敗した死刑執行人の有名な例がこうだ。
ほかにも失敗を繰り返した死刑執行人が告発の後に投獄された例もある。
敵は死刑囚ではなく、民衆だった。
なかには、死刑執行人が殺された例まであるという。
こうまでも死刑が神聖化されていると、当然" 犯罪が讃美される文学の発達" が起こる。これは必然である。
それらの犯罪文学はこうした見解を作り上げた。
" 美しい殺人" は、本人が死刑になるまでのすべての過程までを含み、それは知識人の崇高な生き方のひとつだったのだ。
そしてその美徳はまた、文学によって滅ぼされる。
ユゴーの『死刑囚最後の日』はこれらの華々しい死刑制度が廃れ始めたことの象徴と言って良いだろう。
『死刑囚最後の日』の主人公は、文字通り死刑囚である。ユゴー自身の体験なのかと錯覚するほどリアルな彼の死に至るまでの描写は、ユゴーの反死刑制度思想だけでなく、世の中全体を動かした。
1829年のことだ。神聖な身体刑が、廃れ始める。
フーコーは本書で、この頃に世界で探偵文学が流行り始めた風潮を指摘している。
探偵文学は、犯人と捜査する者との知力の戦いであり、死刑執行人と死刑囚の戦いではない。
民衆の参加も、ここでは不可能に近い。
当時の文学の影響は、今で言うマスメディア、おそらくはそれ以上のものだったのだ。
そして、現代にもまるまる共通する認識がここに誕生した。
その現代に生きるわたしは、この、フランスの処刑の華々しさに、居ても立っても居られないのである。
【余談】
森鴎外の『最後の一句』を読むと、日本が舞台であるこの小説の、囚人が死刑に至るまで(ここでいう開演予告まで)の描写があまりに18世紀頃のフランスと似ており首を傾げた。
(日本文学に詳しくなくてすみません…)
ちょうど5月から勉強している分野の新しい講座を開始するところだったので、その前に読了、なんとかnoteにも挙げられて良かった。