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日没ネコ散文

20億光年前のこと、折りに触れ全部覚えている

 森山直太朗『さもありなん』


昔死んだ黒猫が久しぶりに会いに来てくれた。
彼はわたしがはじめて愛した光であった。
真っ黒で、綺麗な長い尻尾、緑色の瞳を持っていた。彼の足音のあとは空間がきらきらと光る。わたしより3歳年上で、何でも知っていた。好物はヨーグルト。前世が人間であった証拠として、それらを手で食べた。彼が死んだとき、私は17歳で、その2年後、わたしは右肩に彼のタトゥーを入れた。
 
「最近は忙しいんだよ」
 
 また猫に生まれたらしい。今度の飼い主は貴族で、姫君とかなんとか呼ばれているという。彼はわたしに彼女の姿をすこしだけ見せてくれたけれど、顔まではよく見えなかった。多分人間か、それ相当の三次元的な生き物で、暖色のドレスのようなものを身に纏っていた。少し伸ばした髪は黒くはないが、ブロンドといえるまで薄い色でもなかった。
 彼女は貴族ながらレストランのような、カフェのような、とにかくそんなような飲食店を経営しているらしく、夜だけ彼女と一緒にそこに行くという。その空間にはたくさんの人がいて、ランプなのか、薪ストーブなのかはわからないけれど、暖かみのある色を帯びていた。

 歩きながら彼と少し話した。言葉は不要だが、彼は今でも文字を使うらしい。何か書いてある紙を見せてもらったが忘れてしまった。おそらくわたしの知っている言語ではなかったと思う。

 子供の頃、泣いたことに気づいてくれるのは彼だけだった。一緒にこたつの下によく入った。どこまでも鮮明に思い出せる彼の感触と尻尾の動き。カーテンと太陽の光に照らされる毛並み。灯油の香りを嗅ぐたびに思い出す、ストーブの前に凛と座る後ろ姿。その背中は冬の象徴。凡ミスで跳び乗ったそのストーブで火傷した肉球。彼があっちに帰ったときはじめて知った、生物が有機物になったあとの匂い。まんまるく、固まった抜け殻。灰色の皮膚が見えるまでぼろぼろになっていた毛並み。
 わたしはこの星でたくさんの人と出会い、別れてきた。肉親との縁だって簡単に切ったし、離婚も失踪もした。これまで別れたたくさんの人のなかで、ほんとうのほんとうの意味で、もう一度会いたくなるのは、彼だけであった。今だってそう。
ずっと知っていた。
 
 最近、何度も死のうとした。いろんなことが分からなくなった。冬が来て、傷跡は増え、持ち物は減った。いろんなことがあった。
 
「また会いに来てくれる?」

彼は頷く代わりに、またね、とわたしに手を振る。
 
 セブンイレブンの帰りに、いつか彼と別れた場所である細い路地を通った。夕方4時の澄んだ夕焼け。わたしは泣きたいと思いながら泣かずに立ち止まる。醒めはじめる110円のジャスミンティーで掌を温める。思い出す彼のぬくもり。どんなに生きても寒い。

 

【余談】
夜があるってことは、昼もあるんだ。じゃあ太陽系かもしれない。シェアハウスで少しだけこの話をしたら、「それって上品な黒猫?」と聞かれた。
噂を聞きつけて見に来たらしい。
 
愛してるよ。唯一の君。

灯油ストーブの前でわたしはまたあの光と一緒に生きたいと祈る。


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