仕事を辞めたいと思っていたことが過ちだったかもしれない過去の物語を美化させて、後悔しながらも今日も生きていく
終業後、車で帰宅をしている時、Bluetoothで飛ばしたシャッフルされた端末から、ネバヤン(never young beach)のCITY LIGHTSが流れてきた。
味のある声と軽やかな音に乗って「嫌になったらやめちゃえばいいよ そしたらきっと笑えてくるぜ」と聞こた瞬間、気がついたらハンドルを握りながら号泣をしていた。大きい交差点で右折をするとき、鼻水だらけにハンドルを握っているOL風の女性を見た対向車の運転者は、一体どんな顔をしていたのだろう。
明るいメロディと合わせた軽快な歌詞は、誰が責任を持つのかわからない「嫌になったらやめちゃえばいいよ」という歌詞に押されて、私は仕事をやめようと決意をする。たった数秒の歌詞が後押しをしてくれた。己の心のどこかで「仕事を辞めたい」と思ったにも関わらず、無理矢理蓋をして生活している中で、ふっと心の鍵を開けてくれるようだった。扉でせきとめられていた水流はあっというまに解放されて、どばどばと流れ出した。欲にまみれた汚い水だった。
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この物語はすでに数年前の話だ。物事は結果論でしか語れないので、仕事を辞めるというルートを選んだからには、辞めなかったルートを経験することは不可能だ。私は仕事を辞めたルートで人生を歩んでいるので、「結果としてよかったね」と自分に言い聞かせている。
生きていく中で、よかった出来事も悪かった出来事も、物事を受け止めるために、自分が自己決定した事柄に関して何かしらの理由をつけて、「肯定」しないとやっていけないのだ。
カオスだ。辞めたことをそれらしい理由をつけて美化させることも、芸術と言っても商業化された音楽に心を震わせていることも、全て理由をつけないと自分を正当化できない。かわいそうな生き物だ。
「あの時にこうしておけばよかったな」と後悔することはたくさんある。
過去の自分が未経験だったことを、時間を経て経験してきた結果で物事を評価しているのであって、きっとあの頃の自分にただ戻っただけでは、同じ選択肢で決定しているだけだ。今の頭脳を持って過去に戻れるのであれば、結末は変わるかもしれないが、あの頃の自分に対して、今の経験値を与えてルートを再決定させることは不可能だ。
だから、私たちは自分が成してきたことに色をつけて物語を作ろうとする。
汚い物語でも、美しく見える物語でも、“それらしい物語”を作って今を生きている。