文章への執着
文章を書く意味はたくさんある。
記録を残すこと、感情を起こすこと、知識をひけらかすこと、読み手へ世話をやくこと、ただのおふざけ、必要のないこと、未知への想像、どうしても口で伝わらないもの。
なぜ私は、ここまで文章に執着しているのだろう。
文章が好きだ。
文章の癖から、書き手の人となりを想像することも好きだし、自分ではできない表現にわざと心を打たれにいきたい。美しい文章で泣きたいし、面白い文章で笑いたい。汚い文章で怒りたいし、つまらない文章で哀しみたい。
私は、ストレス発散、はたまた、自慰行為として文章を書くことが多い。趣味のようなものではあるのだが、趣味として捉えてしまうと、なんとなく「文章を書くことを楽しむ」という感情にならざるを得ないのではないかと思ってしまう。前述の通り私は文章で怒りたいし、哀しみたくもあるのだ。だからと言って人生の多くを文章に費やしたいわけではない。だから、私なりの自慰行為。生きていく中の少しのスパイス。これくらいがちょうどいい。
私の書く文章は、背伸びをしている。実際の私が普段発する言葉よりも、ずいぶん大人びたことを書いている。いや、確かに書きたいことや伝えたい感情は文章にそのまま乗せているのだが、何故かひとつもふたつも巧みな表現を入れようとしてしまう。
まだまだガキのくせに、伊坂幸太郎になりたがっている。湊かなえになりたがっている。もしかしたら、さくらももこにもなりたがっているかもしれない。いや、それは無いかもしれない。ああ分からない。自分の文章が、さまざまな人間の文章から錬成されたものであるために、逆に誰の真似をしたのかも分からないくらいぐっちゃぐちゃのオリジナルの文章になり得ているのが悔しい。こんな文章が、いつか他人に評価されたいと思うとともに、こんなごちゃごちゃした文章を評価されても嬉しくないという気持ちにもなる。
無から生み出される私の文章を、私は追い求めている。こんなの、地球人として生まれ落ちてから20年目を迎える今から始めたとて、もう遅いのかもしれないけど。なにせ20年も生きている。いろいろ知りすぎてしまった。
文章を書きながら、なんだか自分の文章に胃もたれしてしまいそうである。
今日は商店街の喫茶店で2階から聴こえる誰かのピアノの音色を聴きながら350円のアイスティーで小一時間これを書いていた。なのに、自分の文章はあっっっまいカフェラテのよう。上に極太ホイップが乗っていたっておかしくない。そのくらい胃もたれがしそうである。
まあ、昼に食べた油そばのせいかもしれないけど。
さて、リハビリも兼ねて久しぶりに1000字以上綴ることが出来たし、ここらでひとつ筆を置こう。
そして、本でも読もうかしら。いや、本なんて読んだら、また新しい表現を得てしまう。私の追い求める私なりの文章が書けなくなってしまう。本を読むのはやめよう。そういえば、今はバイトの休憩中であった。戻らねばならない。バイトに。平日だけど夜は人来るかなあ。昨日は雨のせいで売り上げ悪かったし、逆に今日はたくさん来ちゃうのかなあ。忙しいと嫌だなあ。早く閉めたいなあ。ああ、時間が迫る。早く支払いをして、喫茶店から出ないといけない。伝票を見る。メニュー表も見返す。あ、思ったより安いかも。よし、また行こう。この喫茶店に。そして文章を書こう。次はカフェラテ極太ホイップトッピングにしよう。果たして、そんなのあるかな?
では。お会計お願いしまーす。
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