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原爆ドームに行ってきた

12月29日 金

今日もコメダ珈琲で朝食を食べて、路面電車に乗って原爆ドームへ。
路面電車はテンションが上がる。全都道府県採用してほしい。

たくさんの人が原爆ドームを背景に笑顔で写真を撮っている。
日本人も、アジア人も、欧米人も。
この光景に少し嫌悪感を抱いてしまう。

ここは、被爆者や平和への祈りを静かに捧げるべき場所であり、想像力を欠いた振る舞いはしてはならない。少なくとも、犠牲者に思いを馳せる人の邪魔になるような行為は慎むべきだ。
観光の記念に写真を撮るとしても、笑顔やピースは不謹慎ではないかと思う。

一方で、こういう在り方こそ原爆ドームの意義なのかもしれないとも思う。

広島の市街地にあり、ずっと地元の人びとの中心にある。

広島市民球場が原爆ドームの目の前にあった時代のことを、西川美和はエッセイでこう書いている。

訪れた県外の人からは初めて見たときはショックで震えたなども聴くが、被爆前の「産業奨励館」としての瀟洒な姿も知らない私たちにとっては、物心ついた時からもうあれはあの姿であそこに在った。悲しみと痛みと、恐れと祈りに交えて、けたたましいラッパの音やら口汚い野次やらがお好み焼きのごとく一緒になって、いつだって当たり前のように見て来た。あの場所こそが、私たちのホームなんだ。米国が落とした原爆の遺産のすぐ傍で、「ランス!」「アレン!」と赤ヘルをかぶった米国人選手に屈託もなく市民が声を上げていたのである。そういうなしくずし的でやわらなか平和があった。

『遠きにありて』

地元の人にとって日常の延長線に当たり前にある存在なのだから、観光客にとっても厳かで近寄りがたい存在であるべきではないだろう。

原爆ドームが、静かに祈るため、あるいは過去を学ぶためだけの場所だったならば。
訪れる人は、その日だけ神妙な表情を浮かべて平和について考える(あるいは、考えたつもりになる、考える演技をする)のではないか。──

「なしくずし的でやわらかな平和」と日常から薄くつながりを保てる場所だからこそ、たくさんの人が気構えずにいられる場所であるべきなのかもしれない。

平和記念資料館へ。

みんな年末休みに入ったのか、入館待ちの大行列ができている。
父親と小学1年生くらいの女の子の後ろに並ぶ。
父親は、貴重な休日を使ってでも娘に見せておきたいのだろう。
もしかしたら女の子にとって、今日はまだ退屈に感じるかもしれないけど、父親と2人でここに来たことがあるってことが、いつか彼女に力をくれる大事な記憶になるはずだ。

それにしても仲の良い親子だ。
長時間並んでいても、女の子は一切不機嫌にならない。
いっせーのーせをしたり、父親のオナラから逃げたり、お尻で押し合いをしたり。
とっても微笑ましくて、親子の様子を見ているだけで、わたしも退屈せずに待つことができた。

女の子が突然、首から下げていたおもちゃのカメラを構えた。
カメラが向く先には散歩中のコーギーがいた。
いきなり真面目な顔でシャッターを押す。
こんな場所で長時間並んでおきながら、犬に夢中になれるなんて。
こんな心の動かし方、大人は意外とできないなあ。羨ましい。

1時間弱並んで、ようやく平和記念資料館の中に入れた。
かわいい親子ともお別れだ。

* * *

展示室の中も混んでいた。

目の前を歩いている欧米人のリュックの側面のペットボトルホルダーから、アパホテル社長が顔をのぞかせていて、笑ってしまった。

後ろの家族が、原爆が落とされたのは、長崎が先か、広島が先かで揉めていた。両親と兄がしばらく言い合いをした後に、妹が「そんなんどっちでもよくない?」と言った。

本当にその通りだ。

この場所に足を運んだ全ての人をリスペクトする。

■喉が渇き黒い雨を口で受ける女性

原爆投下後の数時間。ひたすらに不穏。
怖い。

■川の中の遺体をとび口で引き上げる

引き上げる人はどんな気持ちで。この絵を描いた人はどんな気持ちで。
悲しい以外の言葉がない。

■死の斑点

自分の体にこんな絶望の印が浮かんで最期を待つなんて。
想像したら耐えられない。

■濱田良子さん寄贈の腕時計

濱田才さん(当時17歳)は、勤務先の中国配電本社の2階で被爆しました。爆風で吹き飛ばされましたが、8月8日、郊外の自宅に帰ってきました。 帰宅した才さんは、無傷でしたが、やがて髪の毛が抜け、体調が悪くなりました。そして8月19日の午後、亡くなりました。 (才さんと満子さんの妹・良子さんのお話しより) 私は戦後生まれなので、兄と姉に会ったことはありません。 兄や姉が生きていたらどんなに心丈夫だっただろうと、いつも思っていました。 子どもたちを悼み続ける父母の姿をいつも見ていたし、兄や姉への思いは忘れたことはありません。 母は亡くなるまで、朝晩の読経とお寺へのお聴聞を忘れませんでした。仏壇の前でも「もうちょっとで行かしてもらうけんね」と話しかけていました。

■疎開先に届いた手紙 -お母さんから咲子(さきこ)さんへ-

悲痛な被害、引き裂かれた愛情を見ていると、下腹部が熱くなってくる。

■焼け跡での青空教室

力強さを感じた。勉強は希望である。


原爆を投下する候補地に小倉も挙げられていたそうだ。
もしも小倉に落ちていたら、自分も自分の父親も生まれてなかったかもしれない。
そう思うと、安堵と罪悪感が混じり合って暗い気持ちになった。

展示室の出口に、来館者が気持ちを書き残す「対話ノート」があった。
ついさっきまで原爆の凄惨さを目の当たりにした人たちが、感情を咀嚼する前に、思ったことをそのまま書いたようなノートだ。
そこには「平和が続きますように」とか「もう戦争が起こりませんように」とか、シンプルな言葉ばかりが並んでいる。

そして、私もそう思う。
その通りだ。その通り。全面的に、同意する。そうとしか思わない。それしか言葉が出てこない。

きっとどんな文才のある人がここを訪れても、このノートにたくさん書かれているようなシンプルな言葉しか出てこないのではないか。平和記念資料館はそういう場所だ。


核軍縮しないということはそういうことじゃないか、と怒りが湧いてくる。

* * *

平和記念資料館を出たのが15時前。

原爆の悲惨さを見た後でもお腹は空く。生きていればお腹は空く。

ということで、みっちゃん 横川店分家でお好み焼きを食べた。美味しかったなぁ。

平和大橋。この異彩を放つデザインが、街の復興を急ぐ当時の人々の心の支えになったそうだ。

もう一度平和記念公園へ戻った。まだ資料館には行列ができている。
こんなに多くの人が平和記念資料館を訪れるのなら、未来は平和だと思いたい。

それでもやっぱり、ここに来る人なんて世界のほんの一部でしかない。
99%が暴力を放棄しても、1%でも暴力を振るう人間がいたら、自衛せざるを得ないのだし。

それだけじゃない。

ここに並んでいる人のほとんどに、それぞれ大事な家族がいる。
誰かを愛するということは、世界を愛する人とそれ以外に分けることでもある。
愛する人の安全や幸せを願う気持ちが、いたるところでぶつかり合って争いが起こる。
愛ゆえに、「全員平等・平和」なんてことはあり得ない。

それだから世界はややこしい。

紙屋町まで歩く。
その観光スポットが街にどう馴染んでいるかが街の豊かさだと思う。
境界のグラデーションというか。

12月30日 土

旅行の最終日。朝ごはんをゆっくり食べてホテルを出る。
広島でやることもなくなったので、映画を観ることに。

可部線に乗ってフジグラン緑井に行く。

途中電車の窓から、緑の中に建つパステルカラーのかわいらしいお城のような建物が見えた。三滝苑という特別養護老人ホームらしい。

ちょっと田舎にある人が少ないショッピングモールは、胸を掻きむしられるような気持ちになる。

本屋に寄ったら、7、80歳くらいの男性が、平積みの雑誌の上に荷物を置いて立ち読みしている。

映画は『PERFECT DAYS』を観た。隣のおばあちゃん3人が上映中もずっと喋っていた。

高齢者が〜と括るべきではないが、この人たちに優しくしろというのも難しい。

駅の方に戻って、お土産を買って、最後にいっちゃんでお好み焼きを食べる。 (隣の麗ちゃんに行列ができていたけど、結構違うんですか?)

18:30の博多行の新幹線に乗る。

炭酸の抜けたコーラを流し込んだからか、頭が痛い。

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