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やるやつは、やるなと言われてもやるんです。

やるやつは、やるなと言われてもやるんです。

小林賢太郎『表現を仕事にするということ』(幻冬舎、2024年)p25

小林賢太郎の『表現を仕事にするということ』の中で、繰り返し登場するこの言葉。
まあ、そうだよな、わかるわかる。と、思いながらも、やるなと言われてもやってしまうことが自分にはあるのか?と考えてみたりする。

今、自分がやっていることを思い出してみよう。
文章をnoteに書くこと。イラストを描くこと。写真を撮ること。哲学書を読んで(何言ってるかわかんねぇ…)と頭を抱えること。

パッと浮かぶのはこれくらい。
一つずつ、自分に「やるな」と言ってみよう。

noteに文章なんて書くな。
きっと私はnoteという媒体を奪われたら、昔みたいに自分しか見られないGoogleのKeepメモに書くだけになるだろうな。自分の中に湧いてきた言葉を掴んで、どこかに刻んでおかなければ生きた心地がしない。その言葉がどんなに詩的であっても、当時の感情、境遇、場所の空気が蘇る。

言葉を書くことは、「自分が過去から生きている」ことを証明する作業として、人生に欠かせない。

書くな、と言われても書きます。


イラストなんて描くな。
言葉が湧いてくるよりも頻度は低いものの、言葉ではなくてビジュアルが湧いてくることがある。湧き上がってきた時のフォーマットを大切にしたいから、言葉じゃない形で出てきたのなら、それもそれで残しておきたいなぁ。

過去の自分が何をソウゾウしていたのか残しておきたいという意味で、これも細々とすると思う。下手だと思っているからこそ、形になるだけで嬉しいんです。褒められたらもっと嬉しいです。

描くな、と言われても描きます。


写真なんて撮るな。
「映像記憶」という言葉があるけれど、それを自分のメモリーに保存するのではなく、外部メモリーに保存しておきたい。自分にとってカメラは「ある対象への自分の見方」を残すツールだ。

その時の衝撃、言語化できない感情、その対象に惹かれた当時の感性。時間と経験が積み重なると忘れてしまう自分を大切にするためには、自分の外側に記憶を委ねることが必要だ。

写真に残しておくことで、自分の視界を誰かと共有できる。
なんとも思われないかもしれないけど、何万人に1人くらいは共感してくれる可能性だってある。誰かにとっての新しい眼鏡になったらいいな。

写真は私の中で1つのコミュニケーションツールとして機能している。
これを奪われちゃ困りますなぁ。

撮るな、と言われても撮ります。


哲学書なんか読むな。そんな本読んで頭抱えるな。
大学の演習で哲学書を読んでレジュメを作る作業に苦戦した。
そもそも何言ってるかが掴めないまま、発表していることもあった。

何を言っているか分からない時ほど、「これを理解した瞬間、自分の思考回路が大きく変わるんだ…!」というワクワクもある。ただ、そんなワクワクは1割くらいで、ほとんどその時間は苦行だと感じているのだが。

刺激を受けて、その時に自分の中から湧き上がってきたものを残すにしても、自分の思考回路がずっと同じだと自分が飽きてくる。自分が自分にワクワクしなかったら、なんにも創れやしない。だから時々、回路の大幅アップデートをしたくなる。

美術館とか、博物館とかに行って新しいことに触れるのもいいのだが、知識によってアップデートがされるくらいで、“大幅”かと言われるとすぐに首を縦に振ることはできない。

哲学は、「アタリマエ」を問い直す学問だと思っている。
その「アタリマエ」が回路を作っているような気がしているのだ。

いろいろな哲学者が、それまでの「アタリマエ」をぶっ壊す。
そしてその人なりの「アタリマエ」を再構築する。
これこそ、私が求めていた大幅アップデートじゃないか。

哲学という刺激は、自分が自分にワクワクし続けるためにずっと側に置いておきたい。

読むな、と言われても読むし、
頭を抱えるな、と言われても頭も抱えます。


やるやつは、やるなと言われてもやるんです。
どうやら私は「やるやつ」なのかもしれない。

ならば、とことんやってやろうじゃないか。


創作を、自己表現を愛している。酸いも甘いも、抱きしめてやる。


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成瀬 凌圓 / Nullxe Ryoen
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