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世阿弥が『風姿花伝』で言ってる「物真似の本質」ってなんだ?(第二 物学条々)(後編)
室町時代の天才能楽師、世阿弥が残した本を読むシリーズ。
世阿弥が最初に著した『風姿花伝』の第2章である「第二 物学条々」の後半部分を読んでいきます。(前編はこちらから読めます)
ここでは、能楽で役を演じるときに、どうなりきるのかを9種類に分類し、どのようなことに心がけるべきかについて書いています。
外面的な特徴を掴むのではなく、その役の本質を理解して美しく魅せることの重要さを、世阿弥はこの章で一貫して訴えています。ですが、観客の前で演じる舞台芸術の要素として、身のこなし方や服装のようにすぐ判断できる部分の真似をおろそかにしてはいけません。
本質を掴むために、どのような稽古をするべきなのか。世阿弥の学びを『風姿花伝』から見ていきたいと思います。
「風姿花伝」の本文は、『世阿弥・禅竹』(表章・加藤周一校注)(日本思想体系(芸の思想・道の思想)1、岩波書店、1995年)の「風姿花伝」から引用しています。
法師 - 気高い心構えを“真似る”
この「第二 物学条々」では、その対象が主役となった時にどう振る舞うべきかを論じています。僧侶は脇役としての登場は多いものの、主役として登場することはあまりありません。大寺院から保護を受けていた当時の状況なども影響して、物まねの対象として細かく記すことを避けたと考えることもできます。
登場する頻度の少なさから、世阿弥は「さのみの稽古入らず(それほど稽古はいらない)」と断言してしまっています。心がけるのは、正しい服装と礼儀などから伝わる気高さです。修行者や出家した人の真似をする場合には、修行に専念している様子の表現が重要になってくると言います。
普段の稽古に対して、どれだけ集中して取り組むことができているかという、役者自身の普段の心構えが直に表れる役でもあると言うことができるでしょう。
「思ひの外の手数の入事もあるべし(思ったよりも技術が必要な法師の役もあるだろう)」という言葉がここで言われているように、日頃の稽古を怠らない、地道な努力の必要さを訴える世阿弥の気持ちが感じられます。
修羅 - 死後の世界を“真似る”
修羅は、戦場で亡くなった源平の兵士を演じたものを指します。能の演目を分類するときに、源平合戦を舞台とした曲を集めて「修羅物」と呼ぶことができるほど、多くの曲が存在します。それらの曲について、世阿弥は「花鳥風月と関連させると面白さが増す」と考えています。
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