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広域地質スタディに挑戦: スーパーメジャーに負けたくない
油層モデルで扱うエリアは通常、油田内の集油エリアとその周りの水層を含めた広くても数十km x 数十kmの範囲です。
ある油田の油層モデルを構築するためには、油田内の地質を調べるだけではなく、もっと広い範囲の地域地質を理解することが大変役に立ちます。
どのような堆積環境で油層が堆積したのか、どのような油層性状変化のトレンドがあるのか、石油の根源岩はどこにあり、いつごろどうやってこの油田に移動してきたのか、近隣の他の油田との地質や、石油システムの解釈と整合的なのかなど、対象油田だけではなく、もっと広い範囲の地質を理解する目的で、石油会社も広域地質スタディを行うことがあります。
1990年代、南国の石油開発操業会社もそのような広域地質スタディの必要性を認識して、操業会社の株主に広域地質スタディを請け負ってもらえないか打診してきました。操業会社は日々の生産操業や油層モデルの構築に手いっぱいで、広域地質スタディまで手が回らなかったのです。
当時の操業会社株主は、私が勤めている日本の石油会社のほかに、世界のスーパーメジャーと呼ばれる石油会社のうちのイギリス、フランスの2社が入っていました。
当時私はまだ入社数年のやる気だけはあるぺいぺいでしたが、南国石油操業会社への本格的赴任を待っていた日本で待機中の先輩社員などと、「日本でもなにか大きな仕事がしたい」「メジャーに負けない仕事がしたい」などと大きな夢を話していました。
操業会社から広域地質スタディの打診が来たとき、この1年半以上の期間がかかる大掛かりなスタディが本当に我々の手に負えるのか、メジャーに対抗できるのか、社内でも大きな議論になりました。しかし、やる気と時間が有り余っていた若手社員の熱意で、この広域地質スタディに手を挙げることが決定しました。
結局、広域地質スタディを請け負うことが決まり、1年半以上にわたる長い苦闘のスタディが始まったのです。
わたしは請負決定後、すぐに南国に研修で出てしまったため、南国研修中は本格的にはスタディに関われませんでした。しかし、南国のアパートの自分の部屋に顕微鏡を設置して、毎日夕方になると、広域地質スタディのために出張でコア観察に来ていた先輩社員から岩石サンプルが届けられ、夜のうちに顕微鏡で記載を行い、翌日に先輩に記載用紙を届けるなどということもしていました。
私は約1年の研修が終了して日本に帰ると、広域地質スタディチームに入れてもらい、コア記載の結果やラボ分析などの結果の統合解釈、図面作り、報告書作成など、スタディの絶賛修羅場の時期をチームの皆さんと味合わせていただきました。
いまではとても胸を張って言えないような残業の嵐でしたが、若手社員が自分たちで言い出したスタディでしたし、メジャーも目にするスタディで、南国への技術アピールにもなるスタディだということで、会社で一丸となって取り組んでいました。
それほど当時の日本の石油会社は欧米のメジャーと比べると小さな会社だったということでもあります。
このスタディは私たちの技術の底上げと自信につながったと思います。そしてこれに懲りることなく2年後、別の時代の地層に関する南国広域地質スタディの打診に手を挙げて、無事受注することができました。やはり地獄の残業の日々は繰り返しましたが、報告書作成のノウハウなどが蓄積され、効率化も進みました。
この二つの南国広域地質スタディの経験と知識は、今でもわたしの油層モデリングスタディの力になっていると思います。