【神になりたい人に朗報】人間は神になれる
都市の自然という相反するような言葉を敢えて使用させていただこう。
江戸時代の大名屋敷(その規模は莫大であった)が多かったためか、東京には存外に自然がある、と私は思っている。逆に町人の街であった大阪や堺に緑が少ないなと思っている。所用があって杉並区にある大宮八幡に行ってきたのだが、その想いをさらに深くした。といっても、杉並くらいになると江戸朱引外(すなわち、江戸市街の外部)だったし、今でも八幡周辺は「杉並のチベット」と揶揄されているほどのところなのだ。
さすがに境内の外はすっかり都市化はされているものの、境内は樹に包まれて、ゆかしき神道の雰囲気を醸し出している。近接の幼稚園の存在が神秘性にほんわりとした落ち着きをもたらしている。気分のいい場所である。
大宮八幡はいわば崖の上に屹立した形になっており、坂を駆け下ると和田堀公園がある。どうやら、上古の昔は和田堀に住んでいた住民が坂を駆け上って貴人を崇拝したらしいのだ。現に八幡には古墳が出土されている。権力者や富裕層がなぜに高地を好むかというのは私の関心の一つでもあるが、今はさておこう。
境内の傍に駄菓子屋があり、昭和の匂いがプンプンするというほどではないが、平成一桁時代くらいの古格を有している。今ではすっかり見かけなくなっている(ように認知してしまっている?)駄菓子を購入して、ふたたび、境内に戻り、名物の饅頭と抹茶をいただく。うだるような暑さにも関わらず、不思議と苦痛なく飲むことができた。
ところで、ここのところ、集中力が無くなる日が続いている。これはいったいなんなのだろう。そう思っていたところ、書店で平積みにされまくっている「スマホ脳」という本を読んで(集中力を要した!)、納得はいった。
しかしながら、世界はすべてスマホを介在して成立する動きをますます増やしている。たしかに、スマホから一定の距離を取ることは可能だろうし、スマホを視る時間を減らすことも可能であろう。しかし、スマホ(ないしはスマホ的なもの)を根本的に無くすことはもはや不可能であろう。
とするならば、スマホといかに共存して生きていくのかという考察が必要になると思うのだ。ということを抹茶を飲んで考えていたわけではないけれども、魔法のような便利で優れた機器が人間を逆に追い詰めているという逆説は興味深いことではある。スマホを使用してから、何らかの異変や違和感を感じられている方がいらっしゃるならば、本書を読むといいだろう。新書版で平易な翻訳文で書かれているので、集中力の無くなった頭脳でも、低いハードルで読むことができよう。保証はできないが。
さて、大宮八幡のことに話を戻すが、神道というのは不思議なものである。八百万の神々がいるということは多神教であると措定すれば、それで説明できてしまうだろう。しかし、特段に経典があるわけでもないし、禊や穢れの風習を大いに取り入れたところをみると、西洋的なreligionとは異なるような気がする。民族としての伝統・習慣の蓄積が収蔵された場とみるのがより適切なような気がする。そういう意味では、信仰という要素は薄くなり、したがって、たとえば、西郷隆盛や佐倉惣五郎が死後に祀られるといった状況も生じうるわけだし、生き神として君臨する者(いや、神か)もいれば、崇徳上皇に顕著なように怨霊として祟りをなすものもいる。怨霊信仰と怨霊を慰撫する御霊(ごりょう)信仰の成立の過程についてはよくわからない。すでに奈良時代辺りから怨霊は跋扈し始めているのだ。
ともあれ、なんでもアリなのが、日本神道の神々である。そして、あなたも私もいつでも神になる可能性を秘めている。一神教では考えられないが、ヒンズーなど他の地域の多神教でも類例がないのではないだろうか。
このような日本的特殊性が生じた理由については、さしあたり、神となった人間についてみていくのがいいと思う。アマテラスにしてもスサノオにしてもオオクニヌシにしても、そのモデルとなる人物はいるはずである。しかし、その比定は大昔のことだから非常に難しい。その点、比較的最近、神とましました人物のことをしれば、なにかしら見えてくるかもしれない。
神となった人間に共通していることは、人間社会との結びつきと無縁ではないということである。そのことを分析・論証しているのが、「神になった日本人」で同じく新書版なので読みやすい。
義民佐倉惣五郎を祀った神社が今でも佐倉市に残っている。また、佐倉惣五郎の系譜を継ぐ家も残されている。どうも、信仰心としてはともあれ、彼の名は地元では相当に有名らしく、近々、再訪する予定である。
ちなみに、佐倉惣五郎は年貢などの重税に対する抗議を公儀である将軍の駕籠に対して行ない(駕籠訴という)、処刑(一家ともども磔)
)された。しかし、その後、領地を治める大名堀田家に異変が次々と起こり、主君が乱心するなどして、改易となってしまう。
やがて、山形から別の堀田家が佐倉に移封され、堀田正亮は、怨霊の話を聞き、百回忌を営み、戒名を授け、口の明神(宗吾霊堂の近くにあるが、今は寂れてしまっている)での祭礼を指示したという。この間の政治的な消息も興味深いし、怨霊というものの持つ力がなお江戸近世に根付いていたかとも思うし、ひいては日本神道という我が国の伝統や慣習の蓄積庫に対する興味も湧いてくるのである。
それにしても、義民として祀られたのは管見の限り佐倉惣五郎だけだが、いったいなぜなのだろう。謎は追及するときりがないが、ゆえにこそ面白い。