ヴェネチアのビエンナーレへ行って来た
8月の初め、ヴェネツィアに行ってきた。聞きしに勝る観光地で、住人よりも観光客の方が多いのではと思うほど。カメラ片手に歩き回る人の数に驚く。
パリは猛暑日でも湿気がなくカラリとしているのを物足りなく感じていたが、8月のヴェネツィアはジメジメと蒸し暑く、日本の夏を思い出す。
ねっとりした空気が体にまとわりつくのは懐かしくもある。しかし潮風の中を泳いでいるような茹だる蒸し暑さが、こんなにも体力を奪うものだったとはすっかり忘れていた。歩いているよりは泳いでいる気分でジリジリと体力を奪われ、3歩進んではカフェに入っていた。
ヴェネツィアには車がない。自転車もない。電気式のキックボードもない。代わりに歩行者と、荷台を押す人がたくさんいる。
車がないから信号も無いし車道もない。
どこも4、5階建ての低い建物が続き、くすんだオレンジやピンク、赤茶色に黄土色の壁が並ぶ。無意識に視界に飛び込んでくる情報量が少なく心地よい。スーパーマーケットやバーガーショップチェーンは小さく目立たない単色の看板があるのみで、気づかずに前を通り過ぎるくらいだった。
建物の間を縫うように細い道がクネクネと続き、時々行き止まりにあう。モロッコのスークを思い出す、迷路のような街だ。
目的地に近いはずなのに運河につき当たり、向こう側へ渡る橋が無く立ち往生する。橋の位置を確かめるのが大事なのだけど、電波が入りにくいのかGoogle mapも現在地が掴めず頻繁に迷子になっていた。
道路がない代わりに、あちこちにはらめぐされた運河が交通網となっている。
ボーダーTシャツを着た船頭の率いる観光客向けのゴンドラが行き交うと思えば、自家用のボードが止められているアパートもある。幅の広い運河や島の周りでは小型の船が水上バスとして機能していた。
この街にやって来たのはヴェネツィアビエンナーレという2年に1度の芸術祭を訪ねるためだった。
世界中の国が集まり各国毎にパビリオンを出す万国博覧会的なジャルディーニという広い公園と、大きな工場のようなアーセナルと呼ばれる会場、2箇所のメイン会場があり、会期中はヴェネツィア中の美術館やギャラリーでも様々な企画が催されている。
さながらオリンピックの芸術版といったところだろうか。
過去に訪れた人たちからの評判もよく、期待して行ったのだが、これがまあ驚くほどの肩透かしで面白くなかった。
2日間会場を巡り唯一、心を動かされたのはベルギー館のフランシス・アリスの作品だった。
フランシス・アリスといえば、東京都現代美術館で開催されていた個展を見て以来、とても大好きで、すごく詩的な作家だ。うまく言葉にできないけれど彼の作品と対峙すると「好きだな!すごくわかるな!」という確かな感触が湧き上がってくる。好きなものに出会うと自分が明確になるような、そんな気持ちになるのが嬉しい。
今回ビエンナーレのベルギー館では、"Children's Games"というシリーズが展示されていた。
世界各地の子どもたちが遊んでいる様子をビデオに撮った作品で、これが私はとても好きだった。
何もないところから遊びを生み出し、本来の目的から破棄された道具に創意工夫で遊びを付加する子どもたち。
創造力さえあれば世界はこんなに遊べるんだ!と、子どもの"遊ぶ"創造力と無目的な集中力、無尽蔵なエネルギーに圧倒された。
友だちと物語を作ったり、魔法使いになったり、明日には消えてしまう秘密基地を作ったり、公園で大冒険したり、無から遊びをつくりだした子どもの頃のあの創造力と集中力とエネルギーを追体験する。
何があるから、誰といるから、どこに行くから、そういう条件付きの楽しみではない、一瞬に生まれ消えていく無目的な遊び。
遊ぶという一瞬一瞬に凝縮された、生きる密度の濃さ!
どこかに忘れてきてしまった大切で必要なものを思い出させてくれる展示だった。
"Children's Game"シリーズの映像はFrancis Alÿsのホームページで公開されていて、ダウンロードすることもできるのでぜひ覗いてみて欲しい。
パソコンやiPhoneでも見れるのだが、今回の展示では複数の映像が同時に展示されていて、音が反響しあっていた。普段ならいくつものビデオが同時に流されていると耳に不愉快なのだが、この展示ではそれこそが制御不能な子どものエネルギーのように増幅しあっていてポジティブに転換されていた。
がっかりすることの多かったビエンナーレだったけれど、フランシス・アリスの作品を大きな画面で見られたので良しとしよう。
ところで、芸術ってなんなのだろう。ビエンナーレでずっと考えていた。
ビエンナーレの会場でたびたび感じたのは、アートを風刺するコミック画にあるようなアイロニー。道端のゴミを拾って権威あるギャラリーに置いたら、みんなが難しい顔して批評を述べ、価値をつけ、いつの間にか高額で買い取られていく。しかしからくりが解ければあとには何も残っていない、狐につままれるような気分だった。
例えば100m走なら誰が1番速いか、説明されなくとも誰にでもわかる。
一方、芸術の良し悪しには客観的かつ普遍的な価値基準がない。
その分野を専門としている人たちの間にはアカデミックな"芸術鑑賞言語"があるのだろう。それも面白い。しかしその言語を話さない人にしか解らないということに価値をおいては閉鎖的になる。
コンセプトにだけ存在意義がある作品にも魅力を感じなかった。
作品の横にある説明のパネルを読まずとも、作品自体と対峙して何か感じるものがあるか、私にとってはそれが一番大切だ。
作品それ自体にはなんの力も感じられず、コンセプトだけが壮大だったり、虚をついていたり、専門家の美辞麗句で飾り立てられたりしているとゲンナリする。芸術とナゾナゾの境界が曖昧になってくる。
人種差別や女性の権利、性的マイノリティの権利、環境など、アクチュアルな問題に取り組む作品が乱立していたけれど、果たして芸術ってマニフェストのためだけの存在なのだっけ?壮大なコンセプトと作品の質に大きな乖離を感じることや、テーマの選択と表現方法が一致していないと感じる作品が多かった。
例えば環境破壊を訴える作品。
暗く締め切った蒸し暑い会場に植えられた無数の植物たち。この不快な会場で何ヶ月も過ごすことを思うと気の毒になった。この植物たちはどこから連れて来られ、会期終了後はどうなるのだろう。
強いて肯定的な感想を述べるならば、面白くない作品がこれだけたくさんあると言うことは、ある意味で表現がそれだけ多様なのだ、と考えておく。
フランシス・アリスの作品に全く心を動かされない人もたくさんいるだろう。私が感動する作品に感動しない人がいるということは、私が退屈に感じる作品に心打たれる人もいるということ。
芸術との対峙とは、まず第一義的に個人的な経験であって、そこには間違った鑑賞や正しい感想はないのだと思っている。客観的な価値基準がないからこそ、見る者の世界を拡張してくれる。
ビエンナーレ会場以外にもヴェネツィアにはたくさんの美術館があった。1番面白かったのはアカデミア美術館。
ここで思いがけずヒエロニムス・ボスの作品に出会えたことが今回の旅のハイライトだ。
ヒエロニムス・ボスはルネサンス期に活躍した画家で聖書を題材にした作品を描いているのだが、同時期の他の作家とは全く異なるシュールレアリズム的なスタイルで知られている。
村上春樹の『1Q84』の新潮文庫版の表紙を繋げるとヒエロニムス・ボスの『快楽の園』の一部になることで馴染みのある人も多いかもしれない。
たまたまヴェネツィアにある美術館の本屋さんでヒエロニムス・ボスについての本を見つけ書店員さんに尋ねてみるとアカデミア美術館に彼の作品が3点収蔵されていると教えてくれて、喜び勇んで観に行った。
アカデミア美術館には膨大な数の宗教画が飾れており、宗教という共通のテーマの中でそれぞれの画家がそれぞれのスタイルを築いている、その多様さにまず驚いた。
ビエンナーレを見た時は、アートをもっと知りたいという好奇心が湧かなかったが、アカデミア美術館では知的好奇心を揺さぶられた。
何百年も昔に描かれた作品なのだが、SF的な印象を与える作品が多くとても新鮮だった。宗教画や宗教にまつわる図象学の知識がないのが悔やまれて自然と興味が湧いてくる。やはり歴史や知識を得てこそ感じられることがあるのだろう。
しかし宗教や絵画の知識に乏しくとも、なんだか凄いものがここにたくさん集まっている!ということだけは、ビシビシ肌に感じる迫力あるコレクションだった。
コレクション展示の中盤、いよいよヒエロニムス・ボスの作品だけが展示されている小さなスペースに入ると、それまで鑑賞してきたどの宗教画とも全く異なる、宇宙的ともファンタジックとも言える作品が突然現れて、ただただ魅了された。
彼の絵を一枚見るだけでもそのオリジナリティをひしひしと感じられるのだが、同時代の作品が並ぶ展示の中で出会うと、奇抜さがさらに際立つ。
こんな世界、見たことがない。この想像力はどこから湧き出てきたのだろう。
同時代の作家はもちろん、現代の作家と比べても一目瞭然の類稀なる個性をはっきしている。その絵は想像していたよりも小さなサイズで、だから余計に細部まで謎の生物が書き込まれた絵の密度の高さに驚く。
https://www.gallerieaccademia.it/trittico-degli-eremiti
ボスの作品の後、他の宗教画も見てまわったのだが、ついついボスの作品と比べてしまい、薄味に感じてしまった。
アカデミア美術館の後、現代美術展やシュールレアリズム展なども訪れたが、十五世紀に生きたボスの作品の方に驚きと新鮮さを感じた。ヒエロニムス・ボスの作品を見る前と見た後では芸術の見方が変わってしまうのだ。
十六世紀の宗教革命でボスの作品の多くは破壊されたそうで、現存する作品は30点未満なのだとか。その中でも最も有名な『快楽の園』を含めた数展がマドリッドのプラド美術館に展示されているという。ヴェネチアを訪れて、今度はマドリッドに行ってみたくなってきた。
夏の旅はまだまだ続きそうだ。