だから私はnoteを書く。
文章を綴る時、私が私でなくなることによって、より私になれる気がする。
私が社会の眼差しを向けられた私から逃れて、ああ、本当は自分は自分のことをこういう言葉を使って語りたかったんだなあと知ることができるのだ。
人は良くも悪くも、自分とその自分の周りを纏う場と共に生きている。
その場に求められているノリや当意即妙さに乗れなかった自分も嫌いになるし、乗ってしまった自分も嫌になる。
Twitter。分かりやすい言葉が広がる、人に刺さる。
ただ自分の思考から140字分だけを切り取って話しただけなのに、その余白を突っ込まれる。なんだか疲れてしまう。
人との出会いを求めてマッチングアプリに登録したこともある、でも出会いを求めれば求めるほど、そういった場で交わされる言葉は自分の求めている言葉の質から遠ざかっていく。
だからといって「SNSの繋がりはやっぱりだめだ」と一蹴したくない。物理的な制限を乗り越えて、感性を分かちあうことができる人と出会える可能性に胸躍らせていたい、あきらめたくない。
noteに文章を綴る時は、腰を据えてデスクトップに向き合う。
きっと人の手によって「バズる」とは違う尺度で選ばれた編集部のおすすめ記事にであう。
流れるTLの一つとして反射神経的に飛びつくのではなく、その文章に一対一でじっくりむきあう。
真摯に言葉と向き合ったその先にある繋がりを大事にしたい。
そう感じる自分にとって、noteは一番好きなSNSだ。
だからまずは、自分がどういうことに心が動くのか、何を思うのか、一つ一つ形にしていく。
最初はnoteにはnoteなりの作法というか、きれいに文章をまとめなきゃとかそういうことを考えてしまった。でもきっとそこに器用さなんかいらない。不器用なままの、むきだしの言葉のままな方が今自分が求めている繋がりに近づいていくような気がする。
発信する場としてだけではなく、繋がる場としてのnoteの可能性にわくわくしていきたい。
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