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私が見ている世界は、あなたが見ている世界じゃなかった




「どうしてそんなに、相手のことを考えられるの?」


「人に対して、共感性が高いよね」




今まで周りの人からそう言われるたびに、わたしはいつも「人のことが好きだから」とか、「人に興味があるから」と、答えてきた。


自分自身、そう信じて疑わなかったから。


だけど先日、気づいてしまった。


わたしは相手のことなんて全然考えられていなかったし、興味を持っているつもりで、本当は何もわかっていなかったということに。


気づいて、愕然とした。


わたしは、相手の気持ちなんて、全然わかっていなかったのだ。


"相手の目線"で考える、と決めたのに

そもそもそれに気づいたのは、仕事で同僚に言われた言葉がきっかけだった。


「この企画って、誰を想定しているの?この伝え方は、具体的に、誰に刺さるのかな。」


そう言われたとき、両手で顔を覆いたくなったし、頭を抱えたくもなった。


「ああ、またやってしまった……」


後悔と、大きな反省。身に覚えのある感覚だった。


「企画メシ」の講座の初回で、あれだけ阿部さんにフィードバックをいただいて、猛反省したのに。振り返りをして、次の課題では絶対に「自分の目線」ではなくて、「相手の目線」で考えるって、自分に言い聞かせていたのに。


その資料の中で、わたしは今回も、自分の見えている世界で、自分が言いたいことを言ってしまっていた。


「相手が知りたいこと、聞きたいことを考えて伝える」という当たり前の発想が、すっぽりと抜け落ちていたのだった。


"自分が見たいもの"だけを見ていた

「岡崎さんは、純粋でいい人だから。正直これは、性善説の上に成り立っていると思う。そうじゃない人に、この伝え方は、刺さらない気がする。」


はっきりとそう言われて、


わたしは今まで、一体誰のことを見てきたのだろう?


と思った。


普段一緒に仕事をしているメンバーのことが、本当にわかっていたのだろうか。そもそもちゃんと、興味を持って接していたのだろうか。正面から、向き合えていたのだろうか。


今回の企画は、自分がいつも一緒に仕事をしているメンバーに向けた内容だった。


それなのに、わたしは彼らのことが、何もわかっていなかったのだ。


そう考えてみて、ふと気づいたのは


「わたしは自分が見たいものだけを、見ていたのかもしれない」


ということだった。


「これで伝わると思う?」と聞かれて、すぐに「そう思う」と言えなかったのは、自分が想いを届けたい相手のことを、ちゃんと理解できていなかったから。


「この人は普段、こんなことを考えていて、こんな価値観の持ち主だから、こういう伝え方をしたら、きっと伝わる」と説明できなかったのは、「自分はその人の本心を知っている」と断言できる自信がなかったから。


「性善説」と言われても、仕方がないことだと思った。


わたしは自分が見たいものだけを見て、信じたいことだけを信じて、自分が伝えたいことだけを、伝えてきたのだから。


それは一方的な押し付けだったし、相手のためのコミュニケーションでは、なかった。


真実がちゃんと、見えていなかった。


悲しかったけれど、それが今までの自分の「人との関わり方」だったのかもしれない、と思った。


"相手の気持ち"から、むしろ遠ざかって

そのことに気づいてから、わたしが今まで得意だと言われてきた「共感」や「相手の気持ちを考える」という行為と、「相手の立場に立って考える」ことは、まったくの別物だったのかもしれない、と思った。


昔から、映画を観たり小説を読んだりすると、その世界に入り込み、主人公たちに感情移入してしまって、なかなか現実の世界に戻ってこられず何日も眠れない夜を過ごしていた。


日常生活でも、誰かの悩みを聞いたり、相談を受けたりすると、しばらくは自分の悩みごとなんて忘れて、そのことばかり考えてしまう、ということもしばしばだった。


でもそれは、いま考えてみると、「相手の本当の気持ち」を理解したうえでの行動ではなかった。


わたしは相手の気持ちを想像していたんじゃなくて、「もし自分が相手の立場だったら、どう感じるのか?」と、「自分の気持ち」を想像しているだけだったのだ。


これでは、相手の気持ちを本当に理解しているとは言えない。




好きな人が困っているとき、わたしだったら「話を聞くよ」とつい声をかけてしまいたくなるけれど、本人は「放っておいてほしい」と思っているかもしれない。


自分の夢に向かって努力し続けている人を見て、わたしだったら「素敵だな、あんな風になりたいな」と思うけれど、人によっては「自分はそういう人、苦手だな」と感じているかもしれない。


わたしには好きなものや、やりたいことがたくさんあるけれど、みんながそれを好きなわけじゃないし、やりたいことがない人だっている。


そんな当たり前のことが、わたしは見えなくなっていた。


むしろ、わたしは相手の気持ちを理解するどころか、相手の状況に自分の気持ちを当てはめることで、「わかったつもり」になって、本当の意味で理解することから、遠ざかってすらいたのだ。


自分と他人の境界線が、曖昧に

このことを気づくきっかけになったのは、同僚の言葉だった。


その彼は、ことあるごとに


「それは、どういうこと?」


「どうしてそう思ったの?」


と、相手に聞くようにしているらしい。


相手がどんなに近しい関係性にある人でも、必ずそう考えた理由や、言動や行動の裏にある想い、意図を、言葉でちゃんと確認する。


それは「自分が知らない、人の感情を知りたいから」という好奇心が理由なのだということだった。


これを聞いてわたしは、自分も同じで、昔から「自分とは違う、色んな人の考え方や価値観が知りたい」という好奇心を持って、生きてきたはずなのになあ、と思った。


それなのに、どうしてこんなにも、見えなくなってしまっていたのだろう。




今でも、「自分とは違う価値観を知りたい」という気持ちは、たぶん変わっていないはずだ。


自分とは全く違う環境で育ってきた人、職業に就いている人、考え方を持って生きている人。


海外に住んでいた頃は、毎日新しい発見の連続だったし、色々な考え方や価値観に触れるのが、本当に楽しかった。


もっと知りたい、多くの人と出会いたい。そう思っていたはずだった。


だけどここ数年は、友達でも同僚でも恋人でも、「自分と似ている人、親しくしている人」は、なんとなく自分と同じような考え方をしているのだろうな、と無意識に思っていたのかもしれない。


自分と他人は違う人間だと頭では理解していたはずなのに、距離が縮まるにつれて、一緒にいる時間が長くなるにつれて、その人の些細な変化や、深いところで本当に抱いている感情の機敏、本質的な価値観までは、踏み込んで理解することができていなかったのではないだろうか。


「たぶん、こうだろう」と、相手に聞くことも確認することもせずに、自分の目線で、自分の心で、勝手に想像して、枠にはめ込んでいたのではないだろうか


それでは、結局自分の目でしか物事を見ることができないし、世界は狭いままだ。


相手のことを、本当に理解することはできない。


こんなに近くにいても、それではなんだか寂しいな、と思った。


あなたの目線、あなたの心で、世界が見たい。

この出来事があってから、わたしは「自分の考え」を一旦すべて捨てて、「相手の言葉や行動」を、改めて一から積み上げていくことにした。


それは決して、簡単なことではない。


どうしても、わたしは相手のいいところ(だと、自分が信じたいところ)ばかりに目を向けてしまうし、今までの関係性を通して築き上げてきたイメージは、ついつい視界の端で邪魔になる。


だけど、わたしはもっと身近にいる大切な人のことを、ちゃんと理解したい。


自分の見たいものだけじゃなくて、見たくないものも、見つめたい。


信じたい姿だけじゃなくて、信じたくない姿も知りたい。その現実を、受け止めたい。


それができてはじめて、わたしは「人が好き」と心から言えるのだろうし、大切な人と、まっすぐ向き合えるのだろう。





完全に他人のことを理解することはできなくても、わかろうとする努力は、永遠に続けていきたい。


そう、強く、強く思った。


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