"誰かの基準" に染まった自分を脱ぎ捨てて、私の身体を取り戻す
今年の目標の中に、「SNSを見る時間を減らし、その代わりに本を読む」というものがある。
これだけ読んだらごくありふれた目標のように思えるかもしれない。
だけど、これは2023年の私のゴールでもある「将来、自分が目指したい方向性や軸となる領域を明らかにする」を達成するために、もっとも重要な目標だと私は思っている。
なんだかとても堅苦しい言い方をしてしまったけれど、簡単に言うと、昨年は「Instagramをなんとなく見る」時間が長すぎた。
そして、Instagramで他人のアウトプットに触れる機会が多くなった結果、自分の心の感覚が鈍ってしまったことで「本当にやりたいこと」が見えなくなってしまったように思う。
ここ最近の私は、誰かにとっての"好き"が自分の軸になり、誰かにとっての"美しさ"が自分にとっての正義になっているような気がしてならなかった。
自分の価値基準がすっかり他人のものにすり替わって、五感が正しく機能していない、そんな感覚があるのだ。
このことに、昨年の私は全くもって無自覚だった。「もしかして」と思ったのは、今年の元旦、彼にこんな質問をされた時だ。
「ななみはいつも、"世界観をつくって、届けたい"って言ってるけど、具体的に、どんな世界観をつくりたいと思ってるの?」
その問いを投げかけられた時、静かに衝撃を受けた。
彼にそんな質問をされたことに対してではなく、自分の中に、その答えがなかったことに対して。
私は戸惑いながらも正直に答える。
「ここ最近、他人のアウトプットに触れる時間が長すぎて、自分がつくりたいもの、いいなと思うものが、わからなくなってきてるの。」
彼は、「そっか。その気持ち、わかるなあ」と小さく呟く。
「SNSを眺めてると、何が正解なのか、わからなくなってくるよね。」
彼の言葉に頷きながら、私は自分でそう答えるまで、自分の状態に気づいていなかったなあと思った。そして、同時にあることに合点が入った。
そうか。だから、私はあんなにも焦っていたのか。
昨年の私は、まるで何かに取り憑かれたように、ほぼ毎日Instagramの更新をしていた。内容は、今までと変わらず「旅」と「食」にまつわる写真たち。
彼はいつも、「こんなに高い頻度で更新し続けられるの、本当にすごいよね」と褒めてくれたけれど、私は楽しくて更新しているというより、更新しないと不安になる、という、どちらかというと消極的な理由で継続していた。
「やりたい」ではなく、「やめられない」という、謎の使命感と義務感。
夜ひとりで過ごしていると、この衝動はむくむくと湧き上がってきて、次第に心の中を支配する。
Instagramのフィードやストーリーを眺めながら、
今日、何も投稿しなかったら、自分のことを誰かが思い出すことはないのだろうな。こうして、私への関心は少しずつ薄まって、いつか忘れ去られてしまうのだろうかーー。
そんな不安と恐怖がじわじわと足元から身体を上がってきて、全身を蝕もうとする。
その恐怖から逃れたくて、私は手っ取り早く反応がもらえるInstagramに頼り、「発信」を続けてきた。
昨年の私にとって、Instagramは「自分はひとりじゃない」と確認するための手段だった。そのことが、今になってようやくわかった。
「どうして、更新しないと忘れられてしまう、なんて思うの?」
彼からの問いに、今度ははっきり答えられた。
私が「周りの人の関心を集めたい」「自分から何かを発信していないと、注目されなくなり、周りに誰もいなくなってしまうのでは」と感じるのは、3歳の頃の体験が深く関係している。
私は長女で、初孫だった。家族や親戚一同に可愛がってもらい、大切に育てられてきた。
けれど、3歳になると双子の妹が生まれ、そこからは周囲の関心が一気に彼女たちに移った。それからは、途端にひとりで部屋にこもって過ごすことが増えた。
友達は、紙と鉛筆と本。物語の世界にのめり込み、自分でも空想に浸りながら、ひたすら想像上の物語を書いてきた。
誰も、私の気持ちなんてわからない。
でも、ほんとうは、わかってほしい。
そんな感情が、幼い私の中で常にぐるぐると渦巻いていた。だけど、弱い自分は誰も必要としていない。
いつも笑顔で、聞き分けがよくて、みんなに優しい、しっかり者の私。それが、必要とされる、愛される自分なんだ。
そう言い聞かせながら、強く、逞しく生きてきたつもりだったのに、今でも私はこの頃の経験や感情を、情けないほど引きずっている。
こんな自分は幼いなあ、と呆れてしまうけれど、消えないものは仕方ない。そう開き直るしかない。
私は27歳になった今でも、とにかく誰かに見ていてほしいし、注目を浴びていたいし、好きだよ、大切だよと言われたい。
だって、どうしようもなく、寂しいから。
心の奥深くに根を張っている、この「寂しさ」は、1年半前、彼と出会ってからはだいぶ和らいだはずだった。
それでも、最近になって再び顔を現したのは、たぶん無意識に「ほかの人のアウトプット」に触れ過ぎたからだと思う。
Instagramで自分が憧れている、10歩くらい先を歩いている人たちの投稿を日々眺めているうちに、彼らと自分を比べ、どんどん自信をなくしていった。
「同じ場所へ行っても、この人にはこんなにコメントがくるんだな」
「文章を書いても誰も読んでくれていないなら、書くのをやめた方がいいのかな」
どんどん自分のやっていること、やりたかったことに自信を持てなくなって、空っぽの発信を続けていた気がする。
中身のない、まるで幽霊のような心の叫び。それが、昨年の私がしていたことだった。
ここまでの話を彼にすべて話し終えると、予想外な言葉が返ってきた。
「俺は、ななみのインスタが好きだよ。ななみにはこんな世界が見えているんだって思うと、おもしろくて仕方ない。」
彼の一点の曇りもない笑顔を目の前にしたら、自分の悩みがなんだかとても馬鹿馬鹿しく思えてきた。
いちばん身近に、私が自分の心で感じ、繕うことなく自分の言葉で表現した世界を「好きだ」と言ってくれる人がいる。
誰かが別の誰かのために切り取った一瞬や、それに対する顔も知らない他者の反応なんかに惑わされずに、私は彼の言葉を信じていればよかったのかもしれない。
よく考えたら、私はなにも有名になりたいとか、不特定多数の人に好かれたいとか、そういうことを望んでいるわけではなかった。
自分が好きだなと思う人に好きになってもらい、憧れる人と対等に関われるような人間であれたらそれでいい。
だったら、私は私のやり方で、これからも言葉を紡ぎ、心が動いた瞬間を切り取り、伝え続ければいいのではないだろうか。もちろん、相手に"伝わる"ための努力は怠らずに。
2023年。私は、私の身体を、感覚を取り戻したい。
そして、自分が五感で感じ取ったこと、心動かされたことだけを、「好き」と、「心地よい」と、自信を持って言いたい。
誰かの言葉ではなく、自分の身体から湧き上がってくる言葉だけを、紡いでいたい。
その工程を通して、私はもう一度「自分の本当にやりたいこと」を探してみようと思う。すぐにはみつからないかもしれないけれど、時間をかけて、ゆっくり自分と対話したい。
私が本当にやりたいこと、実現したいことがみつかったらーー。
その先で、共感、共鳴、なんでもいいのだけれど「いいね」「面白いね」と言ってくれる仲間と、出会えたらいいなと思う。
岡崎菜波 / Nanami Okazaki
Instagram:@nanami_okazaki_
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