「愛がなんだ」を観て。二度としたくないあの恋は、忘れたくない恋だった。
全ての純愛が美しい、というのは嘘だと思った。
むしろ、ほとんどの純愛は、恐ろしいほど醜い。そして、残酷だ。
「愛がなんだ」を観て、わたしは答えのない苦しみと救いようのなさに、 4回泣いた。
誰もが、誰かを想って、どうしようもなくなったことがあるのかもしれない。登場人物たち、ほぼ全員に感情移入しながら、そんなことを思った。
それに気づいた時、いつも誰かを掌の上で転がす、「恋なんて興味ない」と言わんばかりの強気のあの人すら、急に愛おしく思えてきた。
本当は、あの人も、暗く出口の見えないトンネルの中で、もがき、苦しんだことがあるのかもしれない。そう思ったら急に苦しくなって、でもなぜかあたたかい気持ちにもなって、涙が溢れて止まらなくなった。
誰かを好きになったとき、「幸せ」なんて考えたこともなかった
「ねえ、あなたはそれで幸せなの?」
わたしがつらく苦しい恋をしているとき、今までに何度も、友人たちから聞かれたこと。
「幸せ?」
そんなの、考えたこともなかった。
少なくとも、誰かにどうしようもなく焦がれている時のわたしには、今、この状態が自分にとって幸せかどうかなんてそんな発想は、1ミリもない。
誰かをたまらなく好きになったとき、「幸せになりたい」「幸せになれるんだろうか」なんて考えは頭の中には微塵もなくて、ただひたすら、 「あの人に、会いたい」。声を聴きたい。そばにいたい。
ただ、それだけ。それ以外は、何もない。
だから、いつもそんな質問に対して、わたしは曖昧に笑ってごまかすことしかできなかった。
「やめておいた方がいいと思うな」
そんなことを、わたしは今まで、何度言われてきたんだろう。
何度言われても、抜け出せなかった。出口の見えない、夢の中から。
前にも後ろにも進めない。身動きが取れない。
もちろん、頭では、わかっている。
わかっていて、この苦しい道を選んでいる。
そう、選んでいるのだ。
映画の中の、テルちゃんもそうだった。
来月結婚するという会社の後輩の女の子に、
「誰かを好きになると、もうそれだけになっちゃうんだよね。その人以外、もうどうでもよくなっちゃう」
と言った時、
「自分も?」
その質問に、テルちゃんは全くそんなこと考えたこともなかった、というようなきょとん、とした表情をする。
あの表情を見て、ああ、わたしもそうだったなあと、苦くて甘い記憶が舞い戻ってきた。
映画の中で、恋や愛といった感情に翻弄されないところにいたのは、彼女だけだったと思う。
種類や程度の差こそあったものの、残りの皆は目も当てられないほど、翻弄されまくっていたから。
「知らない男」と話すすみれさんの前で、マモちゃんがいかに彼女の気を引こうと、自分の存在が彼女にとって必要なものであることを気づかせようと必死になっている姿は、とてもみじめで、それでいて、とても尊かった。
あれを見て、テルちゃんも、そしてわたしたちも、「ああ、好きという感情の前では、みんな平等なんだな」と、安心したような、悲しいような、でもどこか諦めのような、冷たくて、静かで、やさしい気持ちになるんじゃないだろうか。
「お互い」という言葉の残酷さ
一番好きなシーンは、キャンプでの夜のシーンだった。
仲原くんと葉子ちゃんの関係について、マモちゃんが言った言葉。
「まあ、お互いが納得してたら、いいんじゃないかな。」
仲原くんをかばうつもりで言ったんだろうけど、この言葉に、心を、底の方から強引に、がっつりえぐられた人は多いと思う。
マモちゃんは、「お互い」と言ったけれど、実際には、そこには仲原くん「一人」の一方的な想いしかなくて、葉子ちゃんは全くそれに無頓着(に、見える)。
そこにあるのは、双方向の関係性ではなくて、一方通行の、いわば関係とすら言えない「点」の状態だけだ。
「お互い」って、なんて残酷な言葉なんだろう。
しかも、それをテルちゃんの前で言ったことも。
とても残酷だと思った。
けれど、これが現実なんだよなあとも。
わたしたちは、愛に生かされてもいる
そこにいた全員が、それぞれに想いを募らせている相手を浮かべて心を沈めかけたとき、すみれさんが言った言葉が、また、心をじいんと熱くした。
「よし、今から私はお前のためにパスタを作る。私にできることは、それしかないから。」
あ、愛だ、と思った。
人はどんなにつらく苦しい時でも、お腹が減る。
恋をしている時はそんなことも忘れていて、生きている意味なんてあるのだろうか、とすら思ったりするけれど、いざ目の前にご飯が現れると、ああ、自分はお腹が空いていたんだな、ということに気づく。
そして、どんなに苦しい時でも、ご飯は、おいしい。
悲しいことに。そして、嬉しいことに。
その時だけは、ああ、自分は今、生きてるんだ、と思う。
そんな人間の本質というか、そこに突き刺さる、すみれさんの愛みたいなものが感じられて、わたしはこのシーンで、彼女の人間としての器の深さにすっかり惚れ込んでしまった。
自ら選んで沼から抜け出さないという選択
この映画の中で、仲原くん一人が、一方通行の恋の沼から抜け出そうと、決断をする。これに対して、テルちゃんは言う。
「愛ってなんだよ。結局、自分が苦しくなったから、諦めただけじゃん。」
その通りだ、と思った。でも、正しい、とは思わなかった。
テルちゃんは、つらくて苦しいこの状況を、最後まで変えようとしない。せっかく、抜け出せそうな機会があったのに、むしろ、もっともっと深い闇に、自らを追いやってしまう。
自分で望んで、選んで、今のこの沼に、とどまり続けている。
そんなテルちゃんからしたら、この沼から脱出しようと決めた仲原くんが少し羨ましくもあるし、眩しく見えただろう。
だけど、途中で諦めた仲原くんの弱さに、少し軽蔑したような、でも少し寂しいような、「自分の想いはそんな軽いものじゃない」とマモちゃんへの想いの強さを再確認したような、そんな気持ちだったんじゃないかと思う。
わたしには、テルちゃんが今まで以上に、マモちゃんへの想いと、これから自分が取る行動について、意志を固めたように見えた。
昔のわたしだったら、きっと、テルちゃんのように、その場からあえて動かない、沼にい続けるという選択を取ったかもしれない。
でも、わたしも、そのあと色んな恋をして、幸せになる、ということを知ってしまった。
知ってしまってからは、どこか、少し冷静に自分を見る自分が、自分の中に生まれてしまった。
だけど今は、仲原くんでありたいと思う
だから、テルちゃんに過去の自分を重ねながらも、ああ、今は、わたしは仲原くんでありたいな、と思った。
たとえどうしようもないくらい、身動きの取れない恋に捕まってしまったとしても。
一度はそこにはまってしまっても、仲原くんのように、あるタイミングでは、自分から決断して、そこを抜け出す。
今の自分には、たぶんそれができる気がしている。
どちらがいい、ということはないと思う。あえて抜け出さない、というのも、わたしは決断だと思っているから。
でも、人生の最後には、やっぱり、単純だと言われるかもしれないけれど、幸せになりたいし、自分の大切な人たちにも、幸せになってほしい、と思う。
だから、わたしは、今苦しんでいる人たち全員が仲原くんのようになってくれたらいいなあ、と、淡い期待のようなものを密かに抱いてしまうのだ。
それは、これからの自分に対しても。
いつか幸せになっても、忘れたくない恋をしたこと
つらく、苦しく、一方通行の、身動きの取れない恋。そんなものは、一生しなくてもいいのなら、しないほうがいいと思う。
死ぬまでそんな恋があることも知らずに、幸せに生き続けられるのなら、そっちの人生を選ぶ人の方が、多いんじゃないだろうか。
でも、わたしは、自分が今までしてきたそんな恋たちも、悪くはなかったなと思っている。負け惜しみとかではなく。
もちろん、充分後味が悪かったし、身が切り裂かれるかと思うほどしんどかったし、もう一度してみるかと聞かれたら、たぶんそこから全力で逃げ出すけれど。
それでも、そんな恋があったからこそ、わたしはわたし自身を、そんな恋ばかりしてしまう大切な人たちを、大切にする、ということがどういうことなのか、知ることができたような気がしている。
過去を美化しているだけ、と言われたら、それで終わりなのだけど。
だから、いつか本当に幸せになって、あんな恋もあったなあと懐かしむようになっても、この時の気持ちだけは、絶対に、忘れたくないと思う。
誰かを想って、その誰か以外は全部どうでもよくなって、でもその誰かの世界に自分なんてひとかけらも存在しなくて、頭ではやめなきゃとわかっているのにやめられず、苦しくて、身動きが取れなかった恋。
そんな恋にまっすぐに、脇目も振らず、全力で向かっていたときの気持ちを。
--------------------------------------
noteになる前の、小さなつぶやき。
この記事が参加している募集
いただいたサポートは、もっと色々な感情に出会うための、本や旅に使わせていただきます *