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「忘れたくない記憶」のラベル


先日、「明け方の白昼夢」という文章を書いた。

ここに書いたできごとがあってから、わたしの頭の
中にはずっと一つの疑問がぐるぐる渦巻いている。

それは、「どうして自分は、懲りずに一人の相手を
好きでい続けることができるのか」という問いだ。



正確にいうと、何年も同じ人「だけ」想い続けている
わけではないし、恋人ができてその相手のことを
忘れたことだってある。

けれど、ふとした瞬間、鮮明に記憶が戻ってきたり
することがあって、しばらくそこから(文字通り)
動けなくなる、ということがよくある。

たとえば坂を登っているとき、「月曜日は坂を登る
足が重くなるよね」と笑ったその人の顔が現れるし、

どんよりと曇った日の空を見上げたとき、「一番好き
な天気は曇りの日なんだ」と言った声があのときと
同じわたしの右側で、聞こえるような気がする。



「どうして自分は、懲りずに一人の相手を好きで
い続けることができるのか」と書いたけれど、
実際は思い出すという行為を繰り返すたびに、
脳が好きだと勘違いしているだけなのかもしれない、
と思うことがある。

その人との会話や思い出にはトリガーがたくさん
あって、何度も引き出しが開けられるたび、
「恋をしていた」あの頃に戻っているだけなのかも
しれない、と。

だとしたら、その引き出しに別のものを詰めて、
その人との記憶を断捨離してしまえば、好きという
気持ちはいなくなってくれるのだろうか。



ここまで書いてみて、たぶん、わたしはまだこの
できごとを過去にしたくないんだろうな、と気づく。

自分自身が「忘れたくない記憶」のラベルを貼って
記憶の棚にしまっているから、いつでも好きなときに
引き出してしまうのだろう。

だって、身を裂くほど愛していた人のことでさえ、
忘れたいと強く願ったせいか、今となってはすっかり
過去になって思い出すこともほとんどないのだし。



結局は自分の意思なんだろうな、と、なんだかとても
当たり前のような結論になってしまった。

でも、だったら人は「忘れたくない」と思い続けて
いれば、永遠に忘れないものなのだろうか。

死ぬまでずっと好きでい続ける、なんてことも、
あるのだろうか。

もしそうだとしたら、そんな沼のような道はさすがに
歩みたくないな、、と、慄いてしまうけれど。

できればそうなる前に、過去か未来に振り分けたい。 わたしにそんな勇気があれば、の話だけど。



無意識にキーボードを叩いていたら、昨日に引き続き
テーマが「記憶」になっていた。

過去にとらわれているみたいでなんとなく悔しい
けれど、

「そこまでよく人のこと好きになれるね」と周りの
人に呆れ顔で言われるたび、これが自分なんだ、と
半ば諦め、半ば愛おしくも思っているので、

こうなったら、記憶の粒が一つ残らず蒸発するまで、
何度だって思い出してやろう、と、思っている。


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