伸び悩んでも一歩ずつ進んでいくしかない
最近、noteでの活動について考えることがある。
ここまでnoteの毎日更新を続けてきたわけだけど、私は前に進めているんだろうかとふと考える。
曲がりなりにも毎日更新を140日以上続けてきたのは、それだけの期間、1を積み重ねてきた証だし、我ながら意志を強く保てているとも思う。
けれども、目に見える形で斜め上に行けているかというと、必ずしもそうではないらしい。久しぶりにダッシュボードをのぞいてみたら、直近1ヶ月間のPVとスキの数は、3月~6月までの間で一番多かった時期と比べると、その2/3程度までがくんと落ちていた。
これは伸び悩みを感じる時期に差し掛かっているのだろうか。筋トレとかダイエットでいう『停滞期』に入っているのかもしれない。
「なにかを見直したほうがいいのだろうか」と思ったけど、一時的に下がっているからといって、必ずしも自分自身に原因があるとは限らない。自分ではどうしようもない、コントロールがきかない部分が影響している可能性だってある。
本当に大切なことほど数字は教えてくれないのだ。「数字は真実を秘匿する」と前に言ったことがあるけど、やはり正しいようだ。
私なりに振り返ってみて気付いたのは、最初の数ヶ月間はいくつかの都合が重なって、たまたま良い水準にあった可能性があるということだ。
◇
私がnoteを始めたのは2月29日。
ちょうど例のウイルスに対して、世間がようやく注意を向け始めた頃だ。
初動が早い環境にいた人たちはそのぐらいの頃からリモートワークに切り替えていただろうし、緊急事態宣言による自粛期間は、noteをはじめ、インターネットに触れる時間がいつもより長かった人たちも多かったはずだ。
家にいる時間が長くなって、なにか新しいことを始めてみようと、noteの存在を知った人もいることと思う。自粛期間特需もあって、最初の数ヶ月間は見てもらいやすい時期だったと考えると納得がいく。
始めてからの一定期間は、Googleハネムーンならぬnoteハネムーンによって、多くの人に見てもらいやすい優遇期間だったのかもしれないし、ビギナーズラックもあっただろうと思う。
こうした、自分ではコントロールできない要素によって優遇されていたところを「サービス期間は終わりましたよ」と、本来の状態に戻っただけという可能性もあるし、先月末ぐらいからは世間がほぼ前と同じ日常に戻っているので、それで人目に触れる時間が減ったとも考えられる。
◇
では、私にまったく落ち度がないかというと、そうとも言い切れない。あくまで想像の範疇でしかないけど、自分なりに考えることはできる。
noteをはじめた当初は書きたいことがたくさんあったし、熱量もあった。その頃のことを思ったら、いまは熱量も切れ味もいくらか落ち着いてきているのかもしれない。
もちろん、私の文章の書き方は、人によって合う合わないが分かれるだろうなという自覚も少なからずある。
これまでの私は、noteにおいては『続けること』を最優先に毎日更新を続けてきたので、言葉選びについてはあまり深く意識をしてこなかった。
インターネットという海に言葉を送り出す以上、好感を持たれやすい文章には媒体を問わない共通点がある。その上で、ブログにはブログに相応しい文体が、noteにはnoteに相応しい文体がある。noteはどちらかというと、優しい文章か、知的な文章がウケやすいように思う。(当然、ジャンル/カテゴリーによっても異なる)
その点、私はそこまで優しい文章が書けているようには思わない。なるべく優しくありたいとは思っているけど、noteでたくさんのスキをもらうことの多い記事のように文章までほんわかさせてしまうと、こんなのは私ではないと私自身が一番違和感を覚えてしまうのだ。
私自身が"大勢からウケている"多数派を見て首を傾げがちだからなのもあるかもしれないけど、こういう場では(言葉は選ぶものの)割とストレートに物申していることが多いように感じる。
あまりにもほんわかしている文章を見ると体がむず痒くなるような違和感を覚えるし、馴れ馴れしい文章を見かけると今度は「は?」と思うこともある。
私自身、他の人が思うほど優しい人間ではないという自覚があるので、無意識のうちに尖った私自身が文章を通して出てきている可能性も十分に考えられる。角が取れた側が普段の私とするなら、なにかを引き鉄に、鋭利な側の私がくるっと反転して剥き出しになるのだ。
そんな人間が、時折角を取らずにそのまま言葉の塊を投げてしまっているものだから、文章にもいわゆる、"近寄るなオーラ"が出ているのかもしれない。それで篩にかけている(人を選んでいる)という取り方もできるけど、一方で大勢にはウケない(バズとは無縁である)ことは間違いない。
でも、それがいまの私だ。そこに嘘をついてでも数字を伸ばすことを考えだしたら、今度は私自身がその嘘と真(まこと)の狭間で苦しむことになる。だから、いまの私のままでいることに決めた。
それがもし、目先の数字を下げ続けることにつながったとしても、一番大切なのは『自然なままで続けられること』だ。数字のために、目と耳に心地の良い言葉だけを並べるbotになってしまったら、それこそ私である必要がなくなる。私は私にしかなれない。それなら私は、その私にしかできないことをするだけだ。
ただ、だからといって、それは"考えることをやめていい"ということにはならない。世に送り出し続ける限り、「これでいいんだろうか」という自分に対する問いかけは終わらない。その時その時で、自分なりに考えた上で、自分にできることをしていく。それはこれからも変わらない。
結局、続けるなかで見つけていくしかない。
伸び悩みを感じる出来事に当たった時に、それを考えるきっかけにすることは大切だけど、今回書いたように、自分の力ではどうにもできない外的要因が阻んでいる可能性もある。だから、「伸び悩んでいるのは私の〇〇が悪いから」と勝手に結論付ける必要はないと思っている。
それに、誰もが右肩上がりで進み続けるわけではない。山あり谷ありで少しずつ上がっていく人もいるし、階段のように一段ずつ上がる人もいる。伸び悩みを感じる期間が長くても、ある時急に爆発することだってある。
そのチャンスが訪れるまで、必要な時には休みながら、地道に続けていく。そのなかで考えていけば、それでいいんだと思う。
成長も壁の打開も、こうして『続ける』『伸び悩む(壁にぶつかる)』『時々調子が落ちる』『休みながら考える』『それでも続ける』をがむしゃらに繰り返していった結果、気が付いたらそこにあるものなのかもしれない。
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