身近に人の幸せを感じることができる「今」、どうすればわたしもあなたも幸せになれる?
久しぶりに筆を取りました。こんにちは。
“まずはご挨拶から”の今日のnoteは、たくさん書きたいことがあるんだ。
最近「幸せって」ー と考える瞬間がぽつぽつ、話題が浮かんでは忘れ、浮かんでは忘れ、というのが繰り返しあって書きたくても書けない状態が続いていました。ごめんね。
生存確認的にわたしの広場に遊びにきてくれた人がいたとしたら、「…なんかあったんかな?」と驚かせてしまったと思います。それも含めて「ごめんなさい」。
さて、本題に入りますね。
インスタやフェイスブック、ツイッターやnote、他にもいろいろ自分の思いを伝える媒体が今はたくさんあるよね。
便利さを感じられる一方で、それらの「道具」はプロの料理人が持つ包丁、ジムに置いてあるダンベルみたいに鋭く、ときに重いものだと最近特に思うんだ。
正しく使えば何の問題もないものが、誤った使い方をしたために「人を喜ばせる」ものでなくなってしまう。
本来、人を喜ばせるために使うはずの道具が、
心ない一部の外野によって、ヴァッサァーと抉られると痛い部分を、グリグリグリグリ、何度もドリルされるみたいにいじめられる。
最近見たニュースだと、ryuuchellさんがそうだった。報道を見ても報道陣がわたし達視聴者に伝えてることが全くわからなかったんだ。
言葉として「情報」は耳に入ってくるけれど、それが意味をなさない。
ただぼーっとしていたわたしと家族がそこにいた。
「優しい人から順番に減っていくんだね…😥」
「逆(悪いことした人らから減ってく)ならどれだけ良かったか」
テレビを一緒に見てた人がポツッと言ったその一言が、今でも忘れられないんだ。
人に平気で嫌なこと言ったりやったりするのは
ー そりゃあ、無意識でそうなって、とか
相手からいじめを受けてて自分を守るための正当防衛として、とかならまだわからんでもない。
けど、「これは間違ってる」「やったらマズいことになる」とわかってて「でもその狭間が面白いんだ」ってあえてやるならー
わたしは、その先は、知らん。
大切なことだからもう一度言うけど、
優しい人から順番にいなくなるんだからね。
どこで聞いたかは忘れたけど、
「他人の不幸は蜜の味」
という何とも恐ろしい響きの言葉が存在する。
人の不幸…たとえばちょっとしたことだと
家族とか芸能人とか、誰でもいいけど「ドッキリの罠にハマった」とか
「いつも意地悪な誰かがその日に食べようとしていたケーキが(キープしてたのに)ない!」とか。(いつも意地悪なんだから取られてトントンでしょ、人の痛みと食べ物の恨みわかったでしょ)って、食べ物を横取りしたその人は思うだろう。
確かに、まぁ、そうなんだけど、当事者のレンズをかけてみたらどうだろう。
「わたしは『意地悪』をしたくてしてるんじゃない! まぁ、そんな節もあるけどその行動の裏側を何でみんながわかってくれないの?」と
こんな感じじゃないのかな。
そう、突き詰めてしまえばわたし達は
「客観的」な世界を見ているようで
「主観的」を生きてる。
誰もが見ることのできない「客観的な世界」には、どうしたら近づけるだろう。
「一人ずつの人の心をスケルトンにすることはできなくても、じゃあ、どんな方法があるかな?」
人間だけに与えられた、「考える力」。
“わたしだけの幸せの定義”はなぁに?
一緒に考えようよ。
今が一番なんか…ダメだなぁ…って思ってしまってるあなたにも「一人じゃないよ」って言いたいし、わたしも自分に自信なんか持ったことないよと言いたい笑
でも、喋ることがどれだけつっかえたとしても
書くことでなら活動がマイペースに饒舌にできるから、ここにいる。シンプルだけど、それだけ。
わたしの幸せは、「自分の形」を見つけられたこととリアルとの世界に差がちゃんとあること。
オンラインとオフラインで「差」なんかいらないし、と思ってる人もいると思うけど、あったほうがその人のいろんなこと知れて面白いよね。だから、わたしはあえて「差」を作る。
周りと自分との「できる・できない」の差を埋めよう、とか散々今まで言われて刷り込まれてきた言葉だから、直さなきゃいけないものだと思ってた。
でも、違うって気づいて…
幸せになるために「苦手」は克服しなくても
誰かがわたしの苦手を補う「得意」になってくれるんだと。
けど、わたしの場合はそこで人に頼ってちゃダメなんだけどね笑
自分のこと自分でできるようにならなあかんなぁと苦手なりに思う毎日で…。
幸せになる! って言ったはいいものの
「幸せの定義」はどうやって決めたらいいのかとか、そもそも周りと比べないこと自体が幸せなのかとか、人によって全く違うから面倒なんだよね。
「面倒くさ〜い! 誰か私と交代してー」
と山びこしたいぐらい幸せの基準が高い人もいるし、「生きてるだけで丸儲け!」なくらい、基準値が低い人もいる。
結局は自分で決めなきゃいけないんだよね。
人と張り合うのって、結構エネルギーがいるものだし。
わたしが思うに、人と比べても
結局は自分。
「自分を信じることをなくして、誰がわたしを信じてあげられるんだ」
と、もうひとりのわたしが冷静に突っ込んでるんだろうな。
ひとりでもいい。
わたしの投稿で肩の力を抜くことができる人が増えるとー
今まで活動してきたわたしも「noteやってた意味があった」って思えるよ。
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#心の声 #比較はやめた #自分で生きる