大人にとっての“いいこと”を書くのが得意だった。
小学校の時、必ずあった宿題“読書感想文”。
それが出る度に憂鬱な顔をして、顔をしかめてた。
わたしは本を読むこと自体は好きだし、苦にはならなかった。じゃあ、何でそんなに嫌がるの?
わたしにとっての“読書感想文”は、
大人にとってのいいことを書いてみたり、
わたし以外の感想も込みの「まとめ」なんだろうな、と大体察しがついていたから。
だんだん学年が上がるごとに、
「あなたは自分の意見をこう書いたけど、先生はこの表現好きじゃない」とか赤字を入れられることへの意味がわかってくる。
だから最初から、大人にとっての「面白いこと」
「興味深いと感じること」を書こうとして、躓く。
結果、わたしは自分の意見を後回しにする癖を、
このときにベースとして作ってしまった。
それが今のコミュニケーションにも多少影響してるんだろう。
少人数でなら言いたいことを言える。
でもそれとは反対に、人数が増えていくごとに減っていく、わたしの口数。
端っこの方でただ、へらへらと笑っているだけの存在と化す。
話を聞くのはできるけど「あなたはどう?」なんて振られようもんなら、固まってなにも返せない。
それを、無視したとかされたとか。
誤解をまた、生んでしまう。
だから、コミュニケーションが少しでも円滑に撮れるnoteが、わたしは帰ってきたらくつろげて心地いいのだろう。
わたしがもしも
こどもに「映画でも本でもなんでもいいから、感想文書いてきて!」と頼んだなら。
いいも悪いも関係なく、ただ
「そんなことがあったんだね」と
文法以外には赤字を入れず、相手に寄り添える文章にしてあげたい。
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