教師と聖性、平等と公平
知識ではなく品性が、頭脳でなく霊魂が拓磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」。
新渡戸稲造『武士道』
教師と聖性
教師が聖職であると謳われたのは昔の話。今や誰もこの職業に対してそのような畏敬の念を覚える人はいないだろう。意識の変化が起きたのは被教育の側だけではない。教鞭を取る側の人間ですら、己の内に聖なる義務があると感じるものはほとんどいない。
これが頽廃だと断じるつもりはない。時代の要請に応じた、即応の形態変化と言って良いだろう。
旧時代的な聖性を教職に付与するとなれば、相応の暗黙的権力を教員に認めなければならない。叱咤の名の下に行われる暴力、盲目的な追従の要求も、そこで行われることだろう。けれども現代は、そう言った特権を誰にも認めようとしない。全ての人を平等に。そう標榜された世界で、聖性が生き残る道などありはしない。
教師と公平
ある意味で、このツイートには付与された特権としての聖性ではなく、本質的な聖人likeな意味での聖性を感じる。教師として成すべきことを模索する、求道者としてあるべき姿が見られる。
けれども同時に、拭いきれない違和感をも感じてしまう。どうしてもこれは、反自然的だという印象を抱く。
確かに、教員は全ての人に対して公平であることを要求されている。特定の人に対して贔屓をするような性質は、少なくとも大多数の人々から求められていることではない。
けれどもこの公平さは、一見して究極的に人間的なようであって、その実、究極的に非人間的なものではないか。
持たざる者へ配慮するということはつまり、持つものへ配慮しないと言うことも同時に約束する。父母を持たない子供を考慮するということは、また家族と思い出を作り上げた子へかける言葉を捨て去ることを意味する。
全ての人に対して公平に。
この体現は教師に聖性を付与するように見えるが、行き着く先は非人間的な、没個性を是とする機械的な人造聖性に思えてならない。
平等と公平
平等
差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。
[ 大辞林 第3版 ]
公平
かたよることなく、すべてを同等に扱う・こと(さま)。
[ 大辞林 第3版 ]
平等は本質であり、公平は行為である。
平等を成すと言うとき人は対象の自然的な権利に着目し、公平を成すと言うときには人は対象の権利を作為的に策定する。
先の教師のそれは、平等ではない現実を公平と言う額縁で切り取った行為だと言えるだろう。
それが悪いとは言わない。それで救われる人もいるだろう。その先にはより社会があるのかもしれない。
けれども、公平を行使したとき、一方で平等が損なわれていると言う気がしてならない。
お年玉を貰えなかったからバイトに明け暮れてお金を稼ぎ冬を楽しんだ子、お年玉を貰えなかったので冬を楽しめなかった子。公平は後者に基準を定める。平等は両者を等しい物差しで測る。
いずれが正解であるかをここで断じることは出来ないし、おそらく正解のない問題であると思う。だが、少なくとも正解を模索する行為は誰にとっても必要な問題だと思う。
少なくとも、私は公平と言う考え方が嫌いだ。
それはあらゆる人の個性を平らかにする、恐るべきへらだ。
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