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note という私の武器庫

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言葉は武器である、という言葉を聞いたことがある。

言葉はあらゆる感情に、現実に輪郭を与える媒介であるから、それを携えることで初めて、社会を生き抜くことができる、とか、そんな意味に違いない。どんな意味を孕ませられた言葉であったか、そこまで覚えていないのだ。

けれども、僕はこの言葉が嫌いであった。
だって、僕自身を眺めてみても、饒舌の剣は無く、詭弁の盾も無く、語彙の靴も、見当たらないのだから。

だってそうだろう? 自分が持っていないものを必需品だ、必携品だと言われても、僕にどうすることができたと言うのだろう。

そうした時に人が取れる行動は、3つだ。
相手を否定して戦うか、相手を肯定して黙るか、相手から逃げるかだ。

そうして僕は、言葉から逃げた。

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僕は割と、本を読む方である。

小学生で水滸伝を読み始め、中学で現代文学に入門し、高校で古典文学の洗礼を受け、大学では漢文学の世界を旅した。

この旅は悪くないものだったと思っている。およそ社会で役に立たない有象無象に空想を巡らす日々であったけれども、それでもその日々無くして、今の僕には到達し得なかったと思う。

けれども、その旅路の中にあって思い、そして今その旅路を振り返っても思う、一つのことがあった。

僕には致命的に、旅人としての才覚が足りなかったのだ。

辿った道のことを何も覚えていない。読み終えた本のことを、覚えていられないのだ。


この悲しみが分かるだろうか。

例えるなら、壊れたカメラを携え、あらゆる美しい景観をシャッターに収めて歩くが、それを現像する術を持たない写真家。そんな感じだ。


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そうして僕は社会人になり、読書を辞めた。

なぜか?忘れてしまうと分かっていながら、これ以上、読書に時間を割くということが耐えられなかったのだ。

上京して、家具を新調した。
その本棚に、新たな本が並ぶことは無かった。


そしてある時、note に出会う。


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note という機能が、他と画一する何か素晴らしいものであるのかどうかをを、僕は知らない。

ただ僕にとって note が、記憶の、言葉の貯蔵庫としてこれ以上無く優れたものであると知れるのに、そう時間はかからなかった。

ここまでの道程を忘れてしまうのが嫌なら、書き留めれば良い。
在りし日の空想が消えるのが悲しいなら、書き留めれば良い。


簡単なことではあるけれども、案外気付かないものだ。
そして note は、僕の相棒となる。


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言葉は武器である。僕はこの言葉が嫌いであった。なぜなら、僕はいつだって徒手空拳で、剣も盾も、この身に備えていないのだから。

けれど今は、この言葉を好きとは言わないまでも、拒絶することはなくなった。
なぜって、今の僕には武器庫があるから。


旅がしたいが、踏み切れない?
こんな話をしよう。ある世界に、旅することそれ自体が人生の目的だった、一人のアルケミストがいた ----。

仕事にやる気が出ない?
ある人はこう言ったよ。モチベーションの源泉とは幾ばくかの高揚と、そして、不確実な報酬 ----。

人がついてこない?
他人同士が一つにまとまるのは、難しいことだね。しかし大昔の人は文化さえ違う他者同士で大きなコミュニティを作り上げていた。神話という、共通幻想を持つことで ----。


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僕は言葉を、記憶を、把持できない、不能者である。

だが note がそれを貯蔵してくれるというなら、僕はそこに貯め、取り出すだけで良い。

これは僕にとって武器庫である。
自ら手に入れた武具はここに収められ、そしてそれを取り出し、僕は戦へ、旅へ、どこにだって行くことが出来る。


かくして、僕の旅路は再開された。
note という相棒を、隣人に迎え。


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