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要約:「職業としての学問」 マックス・ウェーバー

学問と教師

 いやしくも学問を自分の転職と考える青年は、彼の使命が一種の二重性を持つことも知っているべきである。というのは、彼は学者としての資格ばかりでなく、教師としての資格も持つべきだからである。

 学者と教師、この二つの資格は決して常に合致するものでは無い。非常に優れた学者でありながら、教師としてはまったく駄目な人もありうるのである。

 もしある講師が教師としては駄目だという評判をとったならば、たとえ彼が世界第一の学者であったとしても、それは大学に職を奉じるものとしては、死刑宣告に等しい。ある人が教師として優れているかは、学生諸君らの出席数によって決まるのである。


学問と専門

 学問は未だかつてなかったほどに専門化の過程にさしかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続くであろうと思われる。

 今日、何か実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、一人自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。これは単に外的条件としてそうであるばかりでは無い。心構えの上から言ってもそうなのである。

 自己を滅して己の課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるだろう。学問を何か自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうとしている人は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人では無い。


学問と芸術

 学者の仕事は、芸術家のそれとは全く違った運命の下に置かれている。というのは、それは常に進歩すべく運命づけられているのである。芸術には進歩というものがない。少なくとも、学問で言うような進歩はない。

 真に「達成」している芸術品は、決して他に取って代わられたり、時代遅れになったりするものではない。ところが学問の場合は、自分たちの仕事がいつか時代遅れになるであろうと言うことは、誰でも知っている。

 学問上の「達成」は、常に新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって打ち破られ、時代遅れとなることを自ら欲するものである。


魔法の消失

 主知化し合理化しているということは、それだけ自分の生活条件に関する一般的な知識を持っているということではない。それは、それを欲しさえすればどんなことでも常に学び知ることができるということ、それを知っているということ、あるいは感じていることが、主知化し合理化しているということの意味なのである。

 人々はもはや神秘的な力を信じた未開人のように、呪術を行ったり祈ったりすることはない。未知なるもの、は急速に姿を消したのだ。
 このことは、「魔法からの世界解放」ということに他ならない。


学問の意義

 我々はここで、学問の意義はどこにあるのかと言う問題に当面する。
 さしあたり、それは実践上の、あるいは技術上の諸目的のためであると答えられる。だが、それは要するに実際家に対する意義に過ぎない。問題はむしろ、学問に携わる人が自己の職業に対して有する心構えのいかんにある。

 プラトンの時代には、学問とは真理への道であり、自然の真相に到達するための道であった。

 中世においては、学問とは科学であり、そこに神の足跡を見出すためのものであった。

 それらが滅び去った現在、トルストイは学問をさしてこう述べる。
「学問、それは無意味な存在である。何故ならばそれは我々にとって最も大切な問題、すなわち我々は何を為すべきか、いかに我々は生きるべきか、と言う問いに対して何事も答え得ないからである」


知識の中立性

 一般民衆の政治的集会などで民主主義について語るような場合には、自分の個人的な立場を隠さないのが普通である。しかし、こうした場合に使われる言葉は、決して学問上の分析に用いられる言葉ではない。

 真の教師ならば、教壇の上から聴講者に向かってなんらかの立場を強いるようなことはしないように用心するだろう。何故ならば、「事実をして語らしめる」という建前にとって、このような態度はもとより不誠実なものだからである。

 学問は、各人が拠り所とする立場に応じて、一方は悪魔となり一方は神となる。教師が知的廉直さを意に介さず、客観性を重視せず自分の思想を披露した時、それはもはや「教育」でなく「指導」に姿を変える。

 学生はしばしば教師の知識ではなく、教師個人の意見を求める。
 しかし教壇に立つべきは「教員」なのであって、「扇動者」や「預言者」ではないということを忘れてはならない。

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七色メガネ
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