《過去の私曰く》光と影は一緒に抱っこするもの
これは2019年の夏に私が形にした言葉達なのだが、私は私のここが好き。
#なんのはなしですか
と思う部分と
#なんとなくわかる
と思う部分があるのでは
ないだろうか。
いま言葉になりかけているものは
まだ言葉にならない。
だから過去の電子の海のガラクタまみれの場所から、こうして引っ張り出してくる。
たまたまこの海域を泳ぐ者が
たまたま見ればいいと思う。
↓下の線から線までが過去の私
《光と影は一緒に抱っこするもの》
どちらも大切だから。
影から見た光の美しさに憧れて
光から影を見た安心感に惹かれて
私はどちらも好きなもの。
人は極端になる事が多いね。
過ぎればどれも毒なのに。
光にあたりすぎれば目が眩む。
影にあたりすぎれば目が眩む。
善も悪も過ぎればおなじこと。
どちらかが欠けた世界では
真っ直ぐ立つことは難しいでしょう。
知るということは 戻れなくなるということ。
知るということは 先に進むということ。
恐れないでとは言わない。
人生のバランスに恐れが必要なときは必ずあるのだから。
ただ
何かだけに偏って斜めから見た世界では
あなたはあなたらしく生きられないかもしれません。
他人が「斜めだよ」と正してくれた「真っ直ぐ」は
あなたが納得しなければ何時までも「斜めのまま」
世界の全てからあなたへ送られることは
あなたの全てで世界に送ることとおなじ。
「全て」という「あなた」が在る。
私は綺麗に作られた
布より前から
蚕が糸を紡ぐより前から
繋がるものを大切にしたい。
けして辿り着けない
だからこそ焦がれる
けして辿り着かない
だからこそ今此処にいるのだから
私のこころは
そういうものです。
私は
優しい言葉は他の人に任せたほうがはやいのだと
そう感じています。
根は同じでも、私の言葉は力の方向が少し変なのだろうと感じます。
整えて、育てて、実らせる。
というのがとても下手というか、そういうのを嫌う気質があると認識しています。
だからこそ
私の言葉は大多数向けではありません。
それでもたまに
必要な何かに届くようになっているので
今夜もこうして文字を連ねるわけなのです。
これは#なんのはなしですか
なのだろうか?
なんなら下書きに眠る
文のほうがよほど奇怪なのではないだろうかと
思いつつ
いや、こういうテイストも良いでしょう?
と私にきけば
「#なんのはなしですか(は懐が深いし、真面目に書いても私はおかしい)」
と言われたので
出します。
あぁ、書き途中の記事たちもいつか日の目を見ますように(心にもない一言でこの記事は〆)