だから案外、箱入り思考
より、輪郭がハッキリした事の話。
思ったままに書くので意味がわからないことがあるかもしれない。
外から見た私というのを、私と私達はとても楽しみにしている。
それは良くも悪くも面白い。
『私の精神状態は、顕著に文面に現れる』
と、私は思っているが隠している時や、誰かの気持ちの擬態の時に本物に見えるものもあり、『顕著に現れる』というのと『言葉の意味合いや、そこから見える風景がダイレクトに私』というのは違う事、らしい。
テンションが朝から持って行かれていた。
危険な状態で跳ねまわる兎のように。
跳ね飛びながら、感じ取る危機感や違和感や大切な事などを足を踏み鳴らし遠くの仲間へ伝える。
様々な場面でそれはある。
実際の野生の兎も足を踏み鳴らし、遠くの仲間とコミュニケーションする。
森の中はいつも対等であり、全てに命が通っている。
反響をキャッチしている。
その時に『あれ?』となった。
人間のコミュニケーションには、プラスチックがある。
それは便利で軽くて、丈夫で換えがきく。
プラスチックそのままの仏頂面なわけじゃない。
心からの塗装がされている事を私は知っている。
そして、それに悪意などない。
むしろ、善意だし、それでいて傷を庇うための防御でもある。
ただ、私達との距離が凄くあるだけだ。
あれでは浸透しないし、反響も弱まる。
それを諦めないのが人間なのだろうが、私達は違う。
『まぁいっか』
なのである。
そんな事は人間とのやりとりでだいぶあることだ。
私も便利にプラスチックを塗装していることもあるので、まぁ、誰でもやってることの一つ。
で、その時の『あれ?』を、ふつふつと自分の世界に持ち帰った。
貰った情報を引っ張りだす。
『納豆菌は強いから納豆は食べない』
菌の世界の話。
それは発酵という過程。
繊細な菌の世界はふつふつと湧き上がる事で熟成していくが、それが何かになるまでは、原始的な、そのままがそこにある。
私はふつふつとやっていたい。いや、やっていたいも何も、私が出来るのがソレだ。
そしてその言葉はまだ小さく、難解であり、しかし簡素でもある。
触れる人間は極僅かであり、小さな声をかき消さない寡黙さと、見守る寛大さ、熟練の業も必要な時がある。
そんな世界の中で、沸々と原始の話を少しだけ世界に零している。お喋りではあるが、それはまだ言葉にもならなかったり、言葉にすると文脈がおかしかったり。
手前。
そう。手前にいるのである。
まだ口には含めない。
美味しいとか、喉越しがどうとか、そういう話になる前の状態。
ただ静かに会話する。
そんな私達なのだ。
ここでまた、貰っておいた情報を取り入れる。
そんな私達は狭い世界に閉じているところがあるが、現象でもある。
台風みたいに。
そのものである。
そこには人間との隔たりが少なからずあり、人間の形をしていて尚、無意識に、本能的に、私達から人を遠ざける力がある。
膨大なエネルギーそのものであり、善悪で無意識に見る人は怒りとか苦しみが生まれがち。
解けば、ただの風と雨の集まりだ。
けれど、人はそう思えない時が多い。
発酵の現場もそうで、関係者以外立入禁止。
なのだろう。
私達の護りは、私達の現場に入るものを厳選する。それは私の意識外で行われる為、私の防御は自動なのだ。
だから箱入り思考。
厳重に管理され、盛大に吹き荒れて、その中で私達は混ざり合い、物事に触れ、何かを手に入れていく。
噛み合っている。
静と動が同時に存在する。
静かな語らいと、激しい語らいがあり
それは混ざり
時に混ざらず一つの器で暮らしている。
状態はずっと感じ取ってきているが、noteは言葉の感覚が鋭い人が多いから、私が輪郭を撫でるのに必要な言葉がやってきてくれるところが気に入っている。
言われたその時はわからなくても、言った本人の意志がすべて伝わるわけでなくても、それは新たなる発酵の始まりになったりする。
それが面白いから他者がいる。
*
ひとなで、ひとなで。
確かめていく。
しかし、それも、疑う。
それは吟味。
精製しない。
熟成させない。
コントロール仕切れない向こう側にしかないものを私達は知っている。
*
私の言葉に過剰に防衛本能が刺激される人間は、
人間らしさに重りがついている事が多い。
私の言葉に過剰に好奇心が刺激される人間も、そう。
だから、上手な距離で楽しんでいってね。
何処かで知っていたと、なんとなくわかっていたと思うなら、それは近しいのだろう。
そういうのだけ、残っていく。
まぁ…たまに超人間が頑張るパターンもあるけどね。好きとか嫌いとか、そういうの通り越して相性悪いってあるから、自分が削れるなーとか、傷つくなーって思ったら距離だけとってね。
遠くから眺めるのと、近くで関わるのは訳が違うんだよ。
それもまたそれ。
*
感じ取っている。
それは様々な人のもの。
一人を軸に、様々な人の意識を練り合わせたり、同時進行で語ったりしているので
言葉を言葉通りに過剰に受け取る人との相性は悪い時が多い。
白と聞いて、純白の白しか出てこない人はとにかく相性が悪い。
相手が悪いのではないし、私が悪いのでもない。
相性が悪い。
まぁ、私とやり取りをしてくれる人とか、私が遊びに行く人は、そういう傾向がないか、少ないから、私と遊んでくれられるわけで、有り難い事だと思う。
僅かで微かな、それに対しての、優しさの塗装というのも、人間の文化として素敵だと思っている。気づいている、気づいていない別としてね。
私が出来ることは、私が在るということくらい。
つらつら書いたが
よくわからんことを書いたかもしれない。
けれど、よくわからんことないかもしれない。
人間の言葉を余すことなく使ったら
とんでもなく簡単な話をしている可能性もある。
しかし、言葉になどならない部分が必ず出てくるだろう。
何時かカタチにしてみたいと思いつつ、そんなことはしなくてもいいのだとも思っている。