人生とちょっと
文書にかけてる熱量の話なのかもしれない。
かもしれない。
かもしかかもしれない。
私はたくさん書くけど
それは大抵、濃くないし深くない。
ドラマチックに人生を振り返ってみたいけれど
そんなものはない。
確かに通ってきたのだけれど
熱が薄くて
他の人の文書の熱を
『ほひょえ〜』と眺めたりする。
やはり本物の炎は熱いな、みたいな感覚がある。
毎日noteを開いている癖に
普通に書くのを忘れて連続投稿が途切れたりする。
でもそれも数時間の話で、こうやって書いている。
目標とか目的というものが、難しい。
目的はなんだろう。
人目に触れることだろうか。
承認されることだろうか。
エコー。
反響して返ってくる輪郭をとらえるのは楽しいかもしれない。
かもしれない。
かもしかかもしれない。
目標はなんだろう?
ないと思う。
賞を取りたい?
文書で人を楽しませたい?
息をするのに目標っているの?
書くのは瞬きとか、呼吸に近いかもしれない。
でもなくても死なないからそこまでしゃないかな。
でもそういうのに近いかもしれない。
かもしれない。
かもしかかもしれない。
「君は君の言葉で誰かを救ったことはあるか?」
という質問が昔、知人からあったなぁ。
私は「救おうと思って救ったことはない。結果、救う形になった事はある」みたいなことを述べた。
私の想いは私のものだし
結果は結果で別物。
ひとり遊びが好きだ。
基本、一人が好きだ。
こうやって遊びなさいといわれても
やりたくない遊び方は出来ない。
だから
こうやって遊びなさいと私も言わない。
でも私はこうするは言う。
それをどう受け取るかはそれぞれ。
私はこうするの私の真似なんて誰もしないと思うの。
出来ないと思うよ。
出来たとしてそれは私の真似ではなく
そういう遊びが得意なんだと思う。
不思議な感覚ってある。
何処かで芽生えるものだったのかな?と思ったりすること。
けれどそれは通り過ぎてしまったらしいと後から知る。
風船や飴を持った子達が同じ方向を歩いていて、私は持っていない。
あー、貰ってくるものだったか。
みたいな薄い感想がある。
そして、持っていなくても大丈夫なのだが、たまに不思議に思う。
なぜ?気に留めなかった。
知っていたはず、配っていたのを見ていたはず、少し考えればあったほうが良かったのではとなったのでは?など。
でも、ならなかった。
それが純粋に不思議で
どうして貰ってきたの?と聞きたいが
あちらも流れの中で当たり前に貰ってきたのだろうから答えようもないだろう。
消失という事がこんなにも何となくわからないのかと自分に驚く。
何か欠落しているのかもしれない。
かもしか。
その時
その場所
その形なだけ。
それは尊く
素晴らしく
ときに面倒くさい
それだけ。
それだけのなかで
どれだけ楽しいか
そういうのを大切に感じるか
というのが大きいのかもしかかもしれない。
かもしかかもしれない。
あ、手首なんか痒い…。
ねむい。
痒い……。
むぅ。
寝る。